意思決定はデータに基づくべきか現地に足を運ぶべきか。 〜ま、両方なんでしょうけど。

こんにちは。

レポートだけで重大意思決定!?

今から10年以上前のあるとき、僕が所属していた部門のグローバルのリーダーのそばで短期間、鞄持ちしていたことがあります。

その人はアメリカ人でしたが、居住地・勤務地はロンドンでした。

いろいろ話を聞いたのですが、グローバルでとある外部のソフトウェア会社と大々的に提携する、というテーマについて話していた時のことです。

そもそも「あまたあるソフトウェアのなかで、なぜその会社のものを採用したのか。導入実績でもあるのか?」という質問をしたときのことです。

「無い。ガートナーやIDCなどのレポートを参考に判断した」

という回答が返ってきました。

(当時それほど有名ではなかったその会社は、実際にその後順調にビジネスを伸ばし、今では重要な提携先となっています。)

そのときのやりとりを通じて、僕が持った感想として、二つ。

①全世界を巻き込む意思決定を、実物も見ないで、そんな気軽に決めていいのか?

という疑問と、

②(とはいえ)なるほど。だから意思決定が早いのか。

という納得感でした。

現地現物・5ゲン主義

確かに、ガートナーやIDCなどのプロの調査分析屋さんと、自前の調査分析だったら、どっちが品質が高いのだろうか?と考えた場合、前者な気がします。

一方、日本では「現地・現物」とか「5ゲン(現場・現物・現実・原理・原則)主義」という言葉を聞きます。

又聞きや机上の空論は、安易に信じることなく、実際に目にしたことをのみ信頼して判断せよ、という意味だと解釈しています。

調べてみると、もともとは「3現主義」だったのが機能しなくなったのか、「原理」と「原則」を足して、「現」と「原」は字が違うのでカタカナの「ゲン」にしたようです。

製造業の現場ってやっぱり生産の現場なんでしょうね。流通や小売りだったら売り場なんだろうか。

そこから上がってくるデータだけをたよりに判断するな、実際に足を運んで現場に行き、現物に触れてみてよく考えよ、という教訓です。

なるほど。

現地とデータの棲み分け

では、昨今のデータ活用のムーブメントとの整合性はどのように、説明するのだろうか。

また、冒頭の例のような、会社や製品との提携先の選抜をするときって、どこが現地や現場なんだろうか。

なんて疑問が沸いてきました。

加えて、「現地・現物」とか「5ゲン」と言っているから、日本の組織は意思決定に時間がかかるんじゃないだろうか、という仮説までわき上がってきました。

日本の組織において、データはあくまでも参考にする程度。そういわれてみれば経営学などでよく使われるフレームワークも、理解して参考にする程度。

「データでは若手の離職率が高く、エンゲージメントが下がっているから、若手と会わせろ」という会社トップ層の依頼にもとづき、担当部門が現場の優等生ばかりをあつめた「役員とのラウンドテーブル」を通じて、「なんだ、みんな元気じゃないか。やっぱりデータは間違っていた」なんて言い出す始末。

ひどい場合には「日本人は5段階のスケール調査の場合、3を選ぶため数値が低く出る傾向がある」と低い数値に対して説明をつけたりします。

実際の意思決定は最終的には、ほとんどが感覚で決められることが多いのではないでしょうか。(これも感覚ですが!)

データに基づく意思決定というのは、”非現場”、”非現実”のイメージがつきまとうのでしょうかね。

で、当時の僕の整理としては、

『工場や売り場・プロジェクト現場といった「現場」が明確な時は机上の空論を排し、現場に足を運ぶ』

一方、

『「現場」が不明確とか、現実的に足を運べないような場所・範囲であるならば、右往左往していないで、早いところデータに基づく意思決定をしてしまった方が、何も決めないよりは100万倍良い』

という感じでした。

もちろん実際には程度問題で、一定のデータと、一定の現場感を総合して意思決定して行くのが現実ではあると思いますが。

これからも意思決定を迫られた時に、どこを探してもいつまで待っても「現地」が不明確であれば、データのみで判断し、スピードを優先していきたいと思った次第です。

皆さんはどう思われますか?

 

 

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「アスリートファースト」とか「プレイヤーファースト」からの連想

こんにちは。

”技術者ファースト”

実は僕は技術者とか研究者と呼ばれるヒトたちを尊敬しています。

なんでかって言うと、大きく二つくらいあって

まずは、

①自分にできないことをできる人をシンプルに尊敬する気持ち

が圧倒的に強いです。

あと、ステレオタイプですが一般的に僕の周りの人たちは、

②技術を追求する真摯な人柄であることが多いから

という、プリミティブな感覚があります。

(あと、もしかしたら祖父が薬剤師で薬学の博士だったので、近所にあった薬科大学の研究室に幼い頃によく連れて行ってもらっていたこともあるかもしれません。)

上記の二つの特徴はアーティストとか職人とか、アスリートにも当てはまるかもしれませんね。

ですので、そういう人たちと一緒に仕事をすることは日々刺激になるし、すごく楽しいです。

尊敬できる技術者のヒト達がたくさんいるIBMという組織は、それだけで所属する意義がある場所です。

ちなみに、今回の添付写真はご近所さんを中心とするIBMの技術者のトップクラス(文字通りホントにトップクラス)の人たちとの会食時の写真です。

実際に現場で仕事しているときも、教えを請えばイヤな顔一つせず教えてくれますし、こんな面倒な作業どう考えても自分やイヤだ、と思うような作業でも(当該領域であれば)むしろ喜んでやってくれます。

日常的に尊敬、感謝、感動の連続だったりします。

なにしろ、IBMはその高度な技術で成り立っている会社ですからねー。

ビジネスとは本来両立するはず

一方で、ビジネスをやっていると、数字のプレッシャーが高くなると、つい技術者を大切にする余裕がなくなってくるリスクがあります。

もちろん、数字を上げてくるヒトもリスペクトされるべき存在ですが、度が過ぎるとつい「ウチは営業の会社」なんて言い出したりして「オレがオレが」になりがちなのが弱点です。

そうすると、つい技術者ファーストの精神の優先順位が下がってしまい、誠実な技術者ほどガマンできなくなってモチベーションをおとしたり、流出したりすることになりかねません。

結果、高い技術力を反映した製品・サービスが減って売るのも大変になるんですけどね。

なんか、これってスポーツのプレイヤーと事務方の関係や、エンターテイメントのタレントとマネジメントの関係に似てたりしないかなって想像します。

本来サポーターの立場である者は前に出過ぎてはいけないのかもしれない、と(自分の行動をふりかえりながら)思います。

技術者をリスペクトして、その人たちが働きやすい環境をや本業に集中できるような環境を、創る活動にマネジメントが集中すると、良い循環ができあがるんじゃないかな、って思います。

 皆さんはどうおもいますか?

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自分に対して期待する。 〜他人に期待するからストレスになる〜

こんにちは。

他人に期待しなければストレスは無い!?

以前「ストレスを感じないために、経験者がやっていること」という内容のタイトルでライフハック系の情報が目に入ったことがありました。

ほう。

メンタルのコツについて書籍を出している者としてはスルーできないタイトルです。

中を見たところ、分かりやすくワンメッセージで、

「他人に期待しないこと」

であると。

なるほど。

確かに、他人に対して色んなレベルで期待をするから「◯◯さんが、動いてくれない」とか、「××さんが、こんな余計なことをした」という、ありがちなストレスが発生するわけです。

実務の中でも大いに当てはまる節があります。

ですので、自分が希望したとおりに、周りに動いてもらおうとしないことはストレスを軽減することはできますよね。

「期待」こそ進歩の源泉

でも、待てよ。

「じゃあ、チームや会社を率いる立場の人は、チームメンバーや社員に期待しないのか。期待こそがビジョンであり、チーム目標じゃないのか。」

という考えがアタマに浮かんだのです。

期待しなければヒトやチームは成長しようとしないですもんね。

このあたり、どうなんでしょうね?

リーダーや社長というのはストレスがたまるもの、という諦観に似た考え方も一つありますね。

同時に、リーダーや社長というのはメンタルのマネジメントがうまいのだ、という考え方もあります。

過度に期待しすぎず、とはいえ期待する。というバランスをとるわけだ。

白か黒かのどちらかではなく、白でも黒でもないその間の適切なポイント、というのが世の中の現実ですからね。

自分に期待する。

じゃあ、あんたはどうマネージしているのか、と聞かれたら。。。

自分がストレスを感じるときを振り返ってみると、ヒトがぜんぜん動いてくれないなと思う時にももちろんストレスを感じますが、同じように自分が想定したパフォーマンスを出せてない時の方がストレスを感じていることに気がつきます。

ですので、常に反省し何か改善策を考えています。

考え方としては、ヒトが動いてくれないのは、自分のコミュニケーション(行動)に改善の余地がある(あった)からだという形の思考回路なんだと思います。

単純に他責にすると、うまくいってない原因とおもわれる誰かをターゲットにするわけだから、かなり腹が立ってきます。

「憤懣やる方無く」と言うようにストレスがたまって体に偏重を来す傾向があります。(気が弱いので、他人に当たる、ということができないので。。。)

大人になってしばらく時間が経っているので、自分のこのような傾向にも気がついてきていて、その対策としてヒトが動いてくれるようになるための改善策を立てています。

ストレスのエネルギーをより未来思考に変えられるんじゃないかって、自己催眠をかけているわけです。

表現をひとりよがりに変えると

「他人に期待せず、自分に期待するのです。」

みたいな(笑)

自分に期待したときのストレスは、他責にしてコントロールできなくなるのではなく、自分で修正するための原動力になります。

 すなわち、こうありたいという状況と、現状とのギャップですのでそのまま成長のための糊しろになるわけです。

自分のパフォーマンスに対する期待であれば、是非するべきじゃないでしょうか。

皆さんはどう思われますか?

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口癖から見えること 「おかげさまで」は他力本願か?

こんにちは。

ラジオ出演の機会をもらいました

実は先日「森清華のLife is the journey」(かわさきエフエム 79.1MHZ/毎週水曜 午後9時より放送)にお招きいただき話をする機会がありました。

光栄なことに、第100回の放送だったそうです。

ameblo.jp

今年は、J-Wave, 文化放送に続き3局目です。

ちょっと本論からずれますが、ラジオって、実は今ビジネス的には盛り上がっているのご存知でした?

長らく右肩下がりだったラジオですが、東日本大震災以降音声メディアが見直されたことで、下げ止まり、2016年以降はスマートスピーカーの登場で成長基調に入ったそうなのです。

で、今回のかわさきエフエムの番組では、キャリアカウンセラーとして活躍されている森清華さんにインタビューいただく形で、自分のこれまでのキャリアについてお話ししたものでした。

大変話しやすい雰囲気で、楽しい時間を過ごすことができました。

オンエアを聞いてくれた知人からのコメントも多く寄せられたのですが、初めて聞く話が多かった、というものがありました。

自分としてはシンプルに今までたどってきた道なので、すごく当たり前なのですが、実はあんまり人に話していないのかな、という気づきがありました。

自分の話し方を聞いてみて

自分でも音源を聞いてみたところ、他にも印象的な気づきがありました。

滅多に自分の声を聞くことはないのですが...これ結構恥ずかしいですね。

思った以上に声が高いです。

それ以外に特に気になったのは、口癖です。

「おかげさまで」とか「ありがたいことに」という言葉が何度も何度も出てくるのです。これは意外でした。

僕は、口癖ってその人の気にかかってることとか、こだわりや姿勢なんかが無意識に出るものだと思っています。会話しながら、そういうの観察するのクセなのです。

ですので、自分のこの口癖を聞いた時、自分が声の主なのにもかかわらずいつもの観察グセが出てしまいました。

そして、この自分の口癖を持っていることにすごく驚きました。

結構自分で思っている以上に、今の自分があることを、いろいろな人のおかげであると本気で思っているようです。

何をなすにも人からのサポートがないと、ほとんど前に進みませんからね。

ただ、ここで「ちょっと待て」と思いました。

「周りがいてくれるから、何かができる」という発想は「周りがいないと何もできない」とか「今自分ができていないのは、自分以外の誰かのせいだ」という発想につながりはしないか。

という懸念を持ったのです。

この二つって何が違うのかな、根本は同じなのかな…ぐるぐる考えてもすぐには自分の中での結論が出ませんでした。

そういえば、自著「リーダーのコツ」の中で「成功は部下の手柄、失敗はリーダーの責任」ということを言っています。

これに似たメンタリティなのかな、とも思います。

じゃあ、なんでそれがいいのか。

他責にすると思考停止になったり改善活動に力を割けないため、自分が成長できない。だからやるべきじゃない、というのは説明できます。

一方で感謝すると何か(誰か)のためになるのか。

シンプルに、助けてもらったのだから当たり前のように感謝をするべき、ということなのか。それとも、今後も気持ちよく助けて欲しいから関係を保っておくために、という一種打算的な思いから感謝するべきであるなのか。

こんな感じで考えたのですが、今のとこ至った結論としては…

最近僕の中でのキーワードとなっているもので「人に対するRespect」があります。

これなのかな。

なんか、社会を前に進めるためには「人に対するRepect」って必要なのだと思うのです。

だから、いくらいいことを言っていても、敬意を書く表現(敬語を使いまくれ、ということではなく)や態度だと、一時的には前に進んでも長い目で見たときには逆戻りしてしまうことすらあるんじゃないか、と。

すなわち、僕の今の口癖の「おかげさまで」とか「ありがたいことに」というのは、「人に対するRespect」という最近常に考えているテーマが、表に出てきたのではないかと、思った次第です。

皆さんはどう思われますか?

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上意下達(ってなんて読むの?)ってヒトから学ぶ機会を減らしてないか? 

こんにちは。

”上意下達組織”

上位下達って言葉ご存知でしょうか?

未だに正式にはなんて読むか分からないし特に分かりたくもないのですが、上からの命令を無理矢理聞かせる組織文化や、逆にそれを言い訳に、上司に責任を丸投げする組織文化または、そういうシステムのことを指すんだと思っています。

そして少なからず日本においては、このなんて読むか分からない上意下達型の組織がまだ残っています。

基本的には僕はこの組織文化をネガティブにとらえています。

なんでかというと、個人の能力を十分に発揮できないからです。

機能するかどうかというと、機能するとは思っています。

ただし有効に機能するためには上司に当たるヒトが絶対に正しいという前提か、部下に当たるヒトがあまり訓練されていないとか情報量が圧倒的に少ないなどのハンデを背負っている場合に限られていると思います。

今の組織って、なかなかそういうことって無いですよね?

特に最近は、テクノロジーの移り変わりが激しいため、世の中の景色が一瞬でかわってしまいます。

変わることに対しては、若い人の方が情報収集能力や対応能力が高いため、一般に若い人の方が部下になることの多い日本の組織では、この面で逆転現象が起こります。

じゃあ上司部下を逆転すればいいか、というとやっぱりまだ仕事においては感情のコントロールとか、ネットワーク、問題解決など経験が活きてくる能力が必要とされます。

ですから、流石にそれも難しい。

上意下達からの解放

じゃあ、どうすれば良いか。

単純に、先輩や上司が自分たちが「絶対に正しい」「正しくなければならない」という意識を捨て、後輩や部下が「先輩が決めてくれるだろう」「指示を待っていれば良いだろう」という意識を捨てれば良いのです。

その方がお互いそうとう気楽です。ストレスがかなり軽減される。

先輩や上司から、分からないことを聞いたり、意見を聞いたりすればいい。最後の責任を取りさえすれば堂々と聞いて良いはずです。その方が情報も集まってくるし、自分の足りないところがドンドン補完される。

僕なんかも、年齢や立場が上の人から質問されたり相談されたりすれば嬉しいから役に立とうとします。「上司のくせに」とか「先輩なのに」なんて微塵も思わない。むしろそれでもついて行きたいと思えるヒトなら尊敬の対象です。

後輩や部下に当たるヒト達に教えを請うことは日常です。

教えてくれるヒトは、先輩や上司だけじゃないのです。

最近、リバースメンタリングという言葉を聞きます。これも一つの例でしょう。

「リバースメンタリング」とは? - 『日本の人事部』

上意下達の組織文化を維持していると、単純計算で組織の半分のヒトから学ぶ機会をうしなっていることになります。

極端に言えば、成長の機会を半分逃しているんじゃないでしょうか。

 皆さんはどう思われますか?

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片方の眉を上げられます? 〜対話と内省:あなたの得意技、自分でわかってます?〜

こんにちは。

この一週間は、セミナーや会食、インタビューなどで多くの刺激を受ける機会がありました。

その中で思ったことがあったので、今日はそれについて考えてみたいと思います。

片方の眉をつり上げられます?

突然ですが、みなさんは片方の眉毛を上げることはできますか?

実は僕はできます。右がわも左がわも。

で、ぼくは実は先週まで、これは世界中の誰もが、何の苦もなくできるものだと思っていました。

しかしできない人がいたのです!というか、日本人の多くの人ができないのです。

指摘を受けて調べてみると、日本人は10%くらいしかできないという説があるそうです。

事実、家族で試してみると誰もできません。娘がかろうじて左だけできました。

この方眉を上げる、というスキルについて、僕はいままで半世紀近く、ヒトに備わった通常機能の一つだと思っていたわけです。

ちょっとした日常会話の中で気付いたことなのですが、僕にとっては日常会話以上の意味が感じられました。

実は、本人が難なくやっていることも、他の人から見れば、ちょっとした特殊能力であることってあるのではないでしょうか。

気付いていないのは本人だけ。

「自分のことは、自分が一番良く分かっている」

という表現がありますが、実はそうではないんじゃないか。

自分が意識して得たものや実行しているものは認識できたとしても、何気なくやっていることの中には、誰かに指摘されないと分からないことってあるのではないか、それも意外に多いのではないか、って思ったのです。

内省も大事だけど、対話も同じくらい大事

 自分のキャリアだったり、自分の行動変革だったりを考えるときって、もちろん一人で考えて、振り返って反省したり分析したり、将来の方向性をイメージしてみることが大切です。

とくに将来について計画する時などは、今の自分の弱点や得意技を前提に、弱みを改善するか、強みを活かすかなどの方針を考えたりするでしょう。

でも、実はそのときに第三者から客観的意見を貰えるとすごく気付きになることがあります。

当たり前のようにやっていたことなどが、実は価値が高かったなんてことがあったら努力せずに宝モノが手に入ったようなもの!

逆に気付かなかったら宝の持ち腐れ。そこは気付いて活用するべきでしょう。

冒頭の僕の例の、まゆげの上げ下げなどは社会的な価値があるとはいえませんが、希少性は高いですよね。

コレに関連して、思い浮かべたことがありました。

かつて、学生時代にこんなことがあったのです。

大学一年の頃に、水泳部のある先輩から

「お前、スプリント向きじゃなくてロング向きだよ」

と言われました。

それまで50メートルとか100メートルばかりやってきていました。

そんな中で突然「ロング(400メートル以上の競技を差してました)」と言われたので、一瞬スプリンターとしてダメだしを食らったような感覚があったのと、思いも寄らないことだったので、その場は真剣に考えませんでした。

そしてその数年後。

大学四年になるオフシーズン。スプリントのタイムに伸び悩んだ僕は、オフシーズンだけ、ということでロングの練習をやってみました。

で、春先の試合にでたところ、いきなり所属した水泳部の歴代順位の上の方のレベルのタイムが出ました。

今までやってなかったこともありますが、出るたびに自己ベスト更新がつづきました。

結局、記録としては引退までの最後のたった半年だけやった、ロングのタイムの方がスプリント種目にくらべて相対的に高い記録、それも上り調子の途中でおわったのでした。

振り返ってみれば大学一年の時に、先輩から言われたことの方が正しかったわけです。

あのとき素直に先輩の言うことを聞いていれば!(笑)

対話を通じた助言や刺激は、自分が気付かなかった自身の側面を気付かせてくれるという意味で良い例じゃないかと思います。

真剣にアドバイスしてくれるヒトであれば、助言を求めることは一切遠慮せず、是非ともやるべきです。

言ってもらえる人を持てる幸せ

自分の思いがけない長所を指摘してくれるヒト、みなさんの周りにいますか?

自分を見ていてくれるヒトがいることが 、第一条件ですね。

それだけではなく、その人に対して意見を求め、さらにその意見を素直に聞けるような自分の余裕とか素直さがあることが次の条件だと思います。

皆さんは、そんな関係を築けているでしょうか?

あなたにも、まだ気付いていない特殊な能力があるはず!?

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「言うは易し、行うは難し」 西野監督や落合監督の意思決定

こんにちは。

ほとぼりが冷めてからだいぶ経った感があるのですが(ありますので!?)、先日のW杯ロシア大会における、サッカー日本代表ポーランド戦を見ていたときに思ったことについてコメントしてみます。

賛否両論のポーランド戦「最後の10分」

状況としては、ご存知の通り、”格上”のポーランドに対して負け試合ながら一点差を保っている中で、同時進行中のセネガルがコロンビアにそのままのスコアで負ければ、日本が決勝に進める、というものでした。

そこで当時サッカー日本代表チームを任されていた西野監督の下した判断は、これ以上強豪のポーランドを刺激することなく、このままのスコアで試合を終えるために時間までパス回しをし続ける、というものでした。

賛否両論あったと思いますが、評価がどう固まったかは存じ上げません。

そのときに、僕が思い浮かべたのが「確率論」というやつです。

おそらく、試合前から、いろんなケースでの場合わけをしてアクションを決めていたのだと思います。

同じく決勝進出のかかったコロンビアが点差を守り勝ちきる確率と、強豪ポーランドを刺激して2点差以上で負けてしまう確率などを勘案したのでしょう。

ここで、絶対にぶれなかったのが何を目的にこの試合をやっているか、という軸足だと思います。すなわち「決勝進出」という目的に対する合理性。

もちろん、どの程度かまでは予測できなかったかもしれませんが「世間からの批判」というリスクも検討していたとは思いますが、あくまでも「決勝トーナメント進出」が目的なのです。

僕個人は、西野監督の意思決定を尊重しましたし、すごいリスクテイカーだな、尊敬の念を強くしました。

こんなこと言ってますが、自分が実際そのような状況で同じ決断ができるか、というとやるんでしょうが、辛いだろうな、と思ったりします。

例の、幻の完全試合

この光景を見ながら、思い浮かべるシーンがありました。

同じくプロスポーツの世界ですが、2007年プロ野球日本シリーズで悲願の優勝がかかった中日ドラゴンズ落合監督が、8回まで完全試合をしている山井投手を下げ岩瀬投手に9回を任せた試合です。

結果は1対0で中日ドラゴンズが優勝を果たしました。

2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投 - Wikipedia

当時のこと、すごく思い出します。

こんな意思決定できるのか、と。徹底的に目標にこだわった確率論での意思決定でした。ノーヒットノーランじゃなくて、完全試合ですよ…

8回を投げて来た山井投手と、鉄腕と言われる岩瀬投手のどちらが1点差を守りきる可能性が高いか。

冷静な今なら当然確率的には岩瀬投手です。でもあの試合の盛り上がりの中、完全試合を達成して日本シリーズ勝利、という偉業を夢見るのが人間です。

しかし、落合監督の意思決定は違ってました。それも、状況的に試合前にシミュレーションしていたとは思えません。

これこそ「悲願の日本一」という目標にを達成できる可能性がどちらが高いか、という目的合理性を徹底的に追求した、究極の姿だと思うのです。

そこには「華々しく玉砕する」とか「男気(なるもの)を見せられれば後悔などしない」と言った、日本の組織が過去やってきてしまった、論理を超えた謎の意思決定というものが存在しません。

すなわち、ロシアW杯のケースでいえば

「決勝トーナメントに進む」

に相当する

「53年ぶりに日本一になる」

という「目的」に対する究極の合理性追求があったわけです。

これは、強烈なインパクトを僕に残してそのあとの学びとなりました。

「ヒリヒリする意思決定ってこういうことなのね」って。

実は当時、この中日ドラゴンズの日本一が決まった試合の翌日、自分の会社の専務とお客さんの社長さんの3人で別件でミーティングをしたのですが、この話題になりました。

そして3人とも「あの意思決定ができるかどうかは分からない」という見解で一致しました。

また、あの”名将”野村克也監督のコメントも「俺にはできない」というものでした。

それ以来、企業経営者として多くの意思決定をしている人に対して、尊敬の念を抱かずにいられなくなりました。

また自分が重要な決定をするときには、いつも頭の隅にあの「完全試合」を思い浮かべるようになりました。

「目的合理性」へのこだわりです。

皆さんは、こういうことってありませんか?

 

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