視点が変わると行動が変わる 〜異常に目の良いブラジリアンから学んだこと〜

こんにちは。

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西日本豪雨の翌週末に、実家のある岐阜でこの文章を書いています。

実家も避難勧告が出た地域でしたが、先人たちが作ってくれた堅牢な堤防のおかげで決壊はまぬがれました。

被災地の皆様へのお見舞いを申し上げるとともに、少しでも早い回復をお祈り申し上げます。

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異常に目の良いブラジル人

20世紀の末に、休暇を取って語学研修のためにボストンに2週間ほど滞在したことがあります。

ホームステイ&通学型での滞在だったのですが、同じホームステイ先にブラジルから来たちょっと年上の(当時の僕から見たら)おじさんがいました。

確か語学スクールは違うところだったと思うのですが、朝同じ方向に向かうため駅まで一緒に歩いたことがありました。

その時のことです。

「おい、あれ見ろよ。リスがいる!」

と彼が言い出しました。

彼の指差す方向を見たのですが、どこにリスがいるかはわかりませんでした。

並木道が続き、遠くの方に点々と自動車が駐車してあるのが見えるだけです。

「え、どこどこ?」

と返したところ

「ほらほら。車の下」

「え、どの車?」と僕。

そしたら彼は

「ナンバープレートXXXXの、FordのYYYYって書いてある車の下」

と車を特定したのです。

それを聞いて僕は驚愕しました。

矯正視力1.5の僕にとっては、車があるのがかろうじて見える程度。ナンバープレートなどは存在すら確認できません。

にも関わらず彼は、ナンバープレートを読み上げた上に、車種が書かれた文字まで識別しているのです。

「え?あれが見えるの??」と僕。

「え?見えないの??」と彼…。

おそらく、彼は視力で言えば3.0とか4.0という世界の人なのでしょう。

「その人」が見てるもの

その時思いました。

そうか。彼の見えている世界ってそういう世界なのか、と。

景色を見ても、人の表情を見ても、絵画などの芸術を見ても、僕とは全く違って見えるのだと推察します。

視点や視野が変われば、行動も変わります。

当然ですよね。見えるものが違うのだから。

危険を察知するタイミングも違うでしょうし、何かを確認するための移動距離も違うでしょう。

これを物理的な視点や視野だけに止まらず、もし概念や知識という意味での視点や視野に置き換えて考えてみるとどうでしょうか。

見えているもの、認識しているものが違うと、判断や言動が大きく変わってくるわけです。

例えば、視点の高い人と話すと「え、そんなふうに考えるのか」って驚かされることがあります。

そして、さらに圧倒的に視点の高い人と話すと、それすら想像がつかないのではないかと、思うようになりました。

すなわち「この人変なこと言ってるな」と感じてしまうわけです。

距離がありすぎて自分の見てる景色とは違っているため、なんのことなのかに理解が及ばず、逆に卑下すらしてしまうようなケースです。

いくつか思い当たる節があって、起業しようとしてた先輩の言ってることが当時全然分かんなくて「どういう意味なんだろう?」と思ってたら、超有名な企業になっちゃったりとか、生意気すぎて「なんだこいつ」と思ってたアスリートがスーパースターになっちゃったりとか。

理解の及ばないことって、ちゃんと見極めないと自分が愚かなだけだったりするんですよね。

そこは年齢を重ねれば重ねるほど気をつけなきゃいけない、って自覚しています。

継続学習を通じてアップグレードする

一方で、物理的な視力などと違って、概念や知識などの認識力というのは学習を通してより広く、高品質にアップグレードすることができます。これって我々に与えられた武器ですよね。

より良い判断をして言動につなげるために、視点を高め、視野を広げる訓練をするわけです。

そのために情報収集をしたり、考察したりするのです。

先ほどのブラジル人の例で言えば、視力が(我々からすれば)異常に高いことに対しては、驚嘆したり脱帽して笑うしかないでしょう。

しかし、視点を高めたり視野を広げるって、好奇心さえ失っていなければ、そして物事に対して素直な心で当たることさえできれば誰であろうと、いつであろうと行動を変え、進歩することは可能なんですよね。

皆さんはどう考えますか?

東京豊洲のPHPにて許可を得て撮影。松下幸之助さんの座右の銘だったそうです。

東京豊洲PHPにて許可を得て撮影。松下幸之助さんの座右の銘だったそうです。

 

2018年 半期振り返り

こんにちは。

お気づきとは思いますが、今年も半期が過ぎました。

ここ数年習慣にしている半期の振り返りをしたいと思います。

2018年の目標は以下の様なざっくりしたものと100の個別目標を立てました。

eitarokono.hatenablog.com100の個別目標については、4半期ごとにチェックしています。

 以下が3ヶ月前のもの。

eitarokono.hatenablog.com

1) IBMビジネス:3年目なので集大成

 

この前半期では、戦略の変更を迫られる大きな変化がありました。第1四半期にはそのための対応を行い、第2四半期にはそれになんとかおっつけた感じです。

そして今年の後半は次の(前向きな)大きな変化に向けて、準備をしていく感じです。

あとは、IBM天城ホームステッドという施設で多くの人事部門のお客様を招いて議論するイベントを開催したこと、また、ネットメディアをかませたプロモーションなど、メンバーとともに従来事業部としては取り組んでこなかった新しい販促手法を試してみるような動きもとってきました。

イノベーションを日常にできるようなチームになりつつあります。

この領域にはこの場でコメントできることとできないことがあるので、なんかぼんやりした表現も多いのですが、自身への備忘録としてのこしておきます。

2)自分のビジネス:”事業経営”をする

法人化して7月末で一年がたちます。

制限がある中でやってきていますが、まだまだ自分自身が経営できているかというとそういう訳ではありません。どうしても受け身になります。

なんとか浮揚させようと模索した半年でした。

いろいろな方に相談したり周辺を観察したりしている状況ではありますが、1周年を機に新たに前に進んで行きます。

立場上派手にプロモーションはしてませんが、新しい事業の芽は複数出てきています。前に進んでから修正していくという形で育てていくことにしています。

また、その主要な柱でもある発信活動ですが、書籍をなんとか形にしたいです。

それ以外にもこの場での発信は継続できており、実はアクセス数を気にしているのですが(!)堅調に増えています。

ブログバックナンバーを振り返る作業も200回に迫っています。2017年分まで振り返ったら、また元に戻して二度目の振り返りを、今度は少し加筆するなどの工夫をして実施していければと思います。

講演活動やグロービスでの登壇は継続して行きます。

日々悩みの多いのが、自分自身の時間の使い方です。工夫に工夫を重ねつつ試行錯誤しながらこなしてます。うまく行ったり頓挫したり。これも常時イノベーションですね!

3)家族:特別なことをせず嵐を受けて立つ

コレも悩ましいのは変わりありません(笑)

子どもたちもネット環境に日常にアクセスするようになりました。それに伴って、だんだん対等に会話ができるようになってきました。教えられることも多いです。これは、この半年特に感じます。

とはいえ、親の支援は必要(望んでいるかは別)ですので、できることをやっていければと思っています。

思春期の子を持つ親の皆さんに助言をいただきたいかも…

4)個人:体づくりを中心に

4つのカテゴリーの中では、ここが一番成果があるかもしれません。

体力は確実に回復し増強している感じがします。昨年の菊池病完治以来、10回から始めて毎月10回ずつ増やしてきたスクワットと腕立て伏せも、この7月に100回になりました。

泳いでいても基礎筋力が増えていることによる安定を感じます。

今週末ジャパンマスターズ 水泳大会があるので、成果を計測したいと思います。

映画や小説などの吸収を目標に掲げましたが、特別ペースは上げられてはいません。とはいえ、感覚的ではありますがそこそこ充実していました。

アマゾンエコーやグーグルホームが生活の中に入ってきたので、音が日常にある状態は悪くないです。

5)おまけ

掲げた目標を忘れない、ということも継続して行きます。

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このように淡々と振り返りつつも、かつ、いい面に焦点を当てがちな自分の資質ではありますが、実際には反省すること多し。

総括すると「4)個人」以外は立てた目標に対して半期とはいえ達成度が不十分です。振り返るのはちょっと心が痛い感じですらありました。後半巻き返しを測る必要がありますね。

まずは、できなかったことの原因究明と対策を改めて行うことです。

やっぱり目標を立ていること、そして節目には振り返りを入れることはネジを巻く意味でも有意義です。

引き続き2018年後半も、よろしくお願い致します!

皆さんの今年前半はどんな年でしたか?

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日経ヒューマンキャピタル(Nikkei Human Capital)に見る人事・HR Techの変化

こんにちは。

日本の人事の動向

IBMに戻って今の仕事を担当してから3年目となります。正確にはちょうど2年半が過ぎました。

戻った初年度からIBMが日経ヒューマンキャピタルという、人事や育成、組織開発などをテーマにしたイベントのスポンサーをしています。

ヒューマンキャピタル 2018

そのため、毎年パネルディスカッションのパネリストとして議論に参加させて頂く機会を得ております。

大企業の人事担当役員クラスや経営者の皆様を中心とするメンバーから構成されています。

またそれに先立ち、同じメンバーでステアリングコミッティとして、学者の先生主導の事前トーンセッティングにも参加させて頂いております。

今年と去年は一橋大学の一條先生が議長でいらっしゃいました。

一條 和生 | 教員の紹介 | 教員プロフィール | 教員紹介と研究情報 | 一橋大学大学院経営管理研究科 国際企業戦略専攻

ステアリングコミッティの様子は、週刊日経ビジネスでも毎年掲載されています。

3年前の時点から、女性活躍推進やダイバーシティの観点からの議論はされていました。エンゲージメントという言葉も出ていました。

そして昨年からは働き方改革というキーワードも出てきました。

しかしまだ、テクノロジーという観点ではほとんど議論がありませんでした。

HR Techという言葉がクローズアップされはじめて数年経ちますが、パネルディスカッションでは、まだ人事とテクノロジーは遠いもの、という扱いだったのです。

IBMとしてお話しすることも、女性活躍推進やダイバーシティインクルージョン、ワークライフインテグレーション、といった観点での「先進事例」をお話していました。

HR Techの”扱い”の変化

僕はIBMの立場で参加しているで、当然コグニティブ、AIという文字通り旬な話題に振ろうと動いてはみるのですが、反応は(僕の立場から見ると)イマイチだったのです。

スルーされたり、意味をわかっていただいていなかったり。

それが、今年は一変しました。

ステアリングコミッティでも、僕が話を振るまでもなく、人事へのITの導入、とくにAI導入に関して、参加企業の皆さんからの積極的な発言が相次ぎます。そしてIBMへの期待感もひしひしと感じます。

同席されていた一條先生も「今年は非常に大きな変化を感じる」とおっしゃっていました。

とあるレポートによると、日本におけるHR Tech市場は対前年比40%以上の伸びを示している市場だそうです。

今時なかなかこの数字は聞かないですよね。

IBMアメリカの僕のボスによると、ベンチャーキャピタルの投資先はHR Techにかなり集中しているとのこと。

改めて大きなうねりを感じます。

これまで企業における人の領域は「重視」されつつも、具体策が伴わない状態が続きました。例えば、中期経営計画には明確に記載があり、経営者の発言の中には「人こそ全て」とか「当社は人を大事にする」と言ったコメントがありながら、それを推進するための予算はほとんどつかず、「人事のメンバーの自助努力」に頼るというような状況です。

それがここ数ヶ月、中堅企業やスタートアップだけではなく、大企業でも本気で勝ちを目指す企業の中では変化があったわけです。

当然IBMだけの力でこの流れを推進できるわけはありません。会社の枠を超え、この機運を高めていきたいと考えています。

そうすると、会社に所属して頑張っている人たちがより良いキャリアを送れるようになるんじゃないかと本気で思っているのです。

今年の日経ヒューマンキャピタルにも期待しましょう。

皆さんの組織では、どんな様子ですか?

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「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」と言う教え

こんにちは。

”ばあちゃんの教え”

幼い頃、同居していた祖母との共通の習慣がありました。

夕食後の30分程度の時間、食後に急に動くと体に悪いということで、二人で食卓に残っていろんな話をしていたのです。毎日ではなかったとは思いますが、祖母との思い出はかなりの部分が食卓のシーンです。

話していると、実に当意即妙にことわざや慣用句が出てきて、いろんな「教え」を受けました。「短気は損気」とか「損して得取れ」とか、「千里の道も一歩から」「家の裏庭には、樫の木と花梨の木が植えたる。金は『貸し』ても『借りん』と言う家訓や」とかとか。

今だに自分の行動のDNAに染み込んでいるのを感じます。

その中でも非常にシンプルで、かつ重要な「教え」として残っているものがあります。

「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」というやつです。

これ、あったりまえですが、実行するのは非常に難しい。

幼い頃の僕も「そりゃあ、そうなんやろうなあ」と思いながらも、三歩あるいたらけろっと忘れて弟と取っ組み合いの喧嘩を始めていたわけですから。

今の自分にとっても有効

これって、社会人になっても意外に身近で、生きる教えなのです。

例えば以下のような記事。

blogos.comよくあるランキング記事ですが、その時々の「部下」に相当する人が回答しています。

読んでみると、「あるある」感が炸裂してますから、おそらくアクセス数もかなりのものだと思います。

実はこの手のランキング、自己の能力開発のためによく参考にしているのですが、この20年間ほとんど同じです。

「部下の意見を聞いてくれない」とか「失敗を部下のせいにする」とか、上司にやってほしくないことは時代を通じて変わらないですよね。いつの時代だって嫌なことは嫌です。

より良い上司になろうと考えるならば、うちの祖母が言っていたように「自分が部下としてされて嫌なこと」を上司になってから「部下にしなければ良い」わけですよね。

でも、考えてみると…

時代を通じて変わらない。

つまり、今上司の立場である人が部下の立場であった頃から同じ問題はあったということです。

さらに考えて見れば、ほとんどの「上司」がだれかの「部下」でもあるわけです。

そう考えると「自分がされて嫌なこと」を現在進行形で「部下に対してやってしまっている」人が多いわけです。

これが、この「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」と言う教えの優れたところなわけです。

すなわち、「ついやってしまう」のが人間の性(サガ)なわけなんですよね。

個体としての生存本能を残しつつ、社会的生き物としての人間としてのありたい姿を実現しなければならないと言う矛盾が表出した結果、とも考えています。

事実、僕はキャリアとして駆け出しの頃から、絶対に「責任を部下に押し付ける」ことは決してしない、と誓っていました。

しかし、ミドルとして活動し始めた頃のある時、プレゼン中に資料の間違いをクライアント側の社長に指摘されたことがありました。

指摘されたその瞬間、あまり意識せず「パッ」とその資料を作成した部下に目線を送ってしまったことがありました。

それをやってしまった瞬間、自責の念に駆られ、その夜は眠れませんでした。

絶対にやらない、と誓っていても反射的にこういうことをしてしまうわけです。

気をつけてもいなければ、なおさら普通にやってしまうでしょう。たとえ、やらない方がいいだろうと言うことを頭ではわかっていたとしても。

気をつけても気をつけすぎなことはない、と言うことですね。

そう言う意味で、祖母の言葉は改めて真実をついているなあ、と思う次第です。

皆さんは似たような経験、ありますか?

 

 

 

「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」と言う教え

こんにちは。

”ばあちゃんの教え”

幼い頃、同居していた祖母との共通の習慣がありました。

夕食後の30分程度の時間、食後に急に動くと体に悪いということで、二人で食卓に残っていろんな話をしていたのです。毎日ではなかったとは思いますが、祖母との思い出はかなりの部分が食卓のシーンです。

話していると、実に当意即妙にことわざや慣用句が出てきて、いろんな「教え」を受けました。「短気は損気」とか「損して得取れ」とか、「千里の道も一歩から」「家の裏庭には、樫の木と花梨の木が植えたる。金は『貸し』ても『借りん』と言う家訓や」とかとか。

今だに自分の行動のDNAに染み込んでいるのを感じます。

その中でも非常にシンプルで、かつ重要な「教え」として残っているものがあります。

「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」というやつです。

これ、あったりまえですが、実行するのは非常に難しい。

幼い頃の僕も「そりゃあ、そうなんやろうなあ」と思いながらも、三歩あるいたらけろっと忘れて弟と取っ組み合いの喧嘩を始めていたわけですから。

今の自分にとっても有効

これって、社会人になっても意外に身近で、生きる教えなのです。

例えば以下のような記事。

blogos.comよくあるランキング記事ですが、その時々の「部下」に相当する人が回答しています。

読んでみると、「あるある」感が炸裂してますから、おそらくアクセス数もかなりのものだと思います。

実はこの手のランキング、自己の能力開発のためによく参考にしているのですが、この20年間ほとんど同じです。

「部下の意見を聞いてくれない」とか「失敗を部下のせいにする」とか、上司にやってほしくないことは時代を通じて変わらないですよね。いつの時代だって嫌なことは嫌です。

より良い上司になろうと考えるならば、うちの祖母が言っていたように「自分が部下としてされて嫌なこと」を上司になってから「部下にしなければ良い」わけですよね。

でも、考えてみると…

時代を通じて変わらない。

つまり、今上司の立場である人が部下の立場であった頃から同じ問題はあったということです。

さらに考えて見れば、ほとんどの「上司」がだれかの「部下」でもあるわけです。

そう考えると「自分がされて嫌なこと」を現在進行形で「部下に対してやってしまっている」人が多いわけです。

これが、この「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」と言う教えの優れたところなわけです。

すなわち、「ついやってしまう」のが人間の性(サガ)なわけなんですよね。

個体としての生存本能を残しつつ、社会的生き物としての人間としてのありたい姿を実現しなければならないと言う矛盾が表出した結果、とも考えています。

事実、僕はキャリアとして駆け出しの頃から、絶対に「責任を部下に押し付ける」ことは決してしない、と誓っていました。

しかし、ミドルとして活動し始めた頃のある時、プレゼン中に資料の間違いをクライアント側の社長に指摘されたことがありました。

指摘されたその瞬間、あまり意識せず「パッ」とその資料を作成した部下に目線を送ってしまったことがありました。

それをやってしまった瞬間、自責の念に駆られ、その夜は眠れませんでした。

絶対にやらない、と誓っていても反射的にこういうことをしてしまうわけです。

気をつけてもいなければ、なおさら普通にやってしまうでしょう。たとえ、やらない方がいいだろうと言うことを頭ではわかっていたとしても。

気をつけても気をつけすぎなことはない、と言うことですね。

そう言う意味で、祖母の言葉は改めて真実をついているなあ、と思う次第です。

皆さんは似たような経験、ありますか?

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「いまさら」読書 〜「三国志」とか「深夜特急」とか〜

こんにちは。

読書体験の一部欠落

ここ数週間で立て続けに、最近読んだ本の話をして「今更ですか!?」と言われる経験を何度かしました。

学生時代から、社会人にかけて常に本は持ちあるいているタイプでした。

だから読んだ本はそれなりにあるのでしょうが、実は肝心の部分が抜けている感覚を持っています。

メジャーな読み物で読んでないものが結構あるのです。

人と会話したり、講演などを聞いたりするときに、前提知識として本の話題になったり、登場人物になぞらえて会話されることがあります。

特に最近お会いする人たちは、読書家であるケースが今まで以上に増えているため、会話の中で、時々スポンっと抜けている読書体験があることに気づかされます。

今回もそんな感覚でした。

先日、ある人(というか、父ですが)に薦められて「深夜特急」を読みました。

いやあ、非常に面白かった。

これ、もっと若い時期に読んでいたら人生変わっていただろうなあ、と思うような一冊です。

人生を変えた一冊って誰でもあると思います。

僕自身もそれなりにあるのですが、残念ながら(幸か不幸か)沢木耕太郎の「深夜特急」は手に取らなかったのです。

メジャー中のメジャーなんですけどね!

当たり前のようにタイトルや作家の名前は知っていましたし、書店(おそらく大学生協だと思います)で平積みになっている時期もあったのをよく覚えています。

でも、なんだか天の邪鬼であえて手に取らなかったのも同時に覚えています。

ある会合で「いやー、深夜特急最近よんだんですが、おもしろかったです」という話をしたら、周りに座っていた人たちから「今更ですか!?」という反応を多数頂きました。

まあ「その話を誰に恥じることなく、人に話せるあなたに好感を持つ」とも言われましたが。

他にも告白すると、夏目漱石の「それから」も最近読みました。実は読んでませんでした。

また、マンガですが「三国志」「キングダム」をまとめ買いして読み始めました。

結構話題に出てくるんですよね。読んでないと、周りの会話が盛り上がる中、何を意図して話されているのか自分だけ分かっていない、というシーンに遭遇することも多いのです。

ノーベル賞受賞をキッカケにカズオ・イシグロの「日の名残」もやっと読みました。

他にもたくさん、「いまさら」読書体験や、「いまさら」でも読みたいリストはあるのです。

それに「いまから」読みたい新刊がどんどん入ってくるから追いつかない。

”ために読む”本と、目的のある読書

40歳超えて「いまさら」ではあります。

とはいえ、「いまから」でもやっぱり基本はおさえておきたいなあ、と思って。

目的はなんですか?と問われると、本によっては「◯◯のため」と明確に言えるものもありますが、読むこと自体が目的のものもあります。

以前自分を称して「体育会系文学青年」と言っていた時期もあるのですが、自分の中に社会科学系と人文科学系の両方の要素をよく感じます。

それが、日頃のビジネスの行動に吉と出ているのか、その逆なのか迷うのですが、まあ持って生まれたモノは今更変えられないので受け入れるようにしています。

なんでビジネスと直接関係ないように見える文学小説を、忙しい中でも読みたいと思うのでしょうかね。
一見非合理のようにみえるのですが、説明できないだけでなんか意味があるように思うのです。

「説明できない=非合理」なのかもしれませんが、合理的に感じるのはなぜなんだろう。

これからも、欠落を埋めるためなのか、人との会話をより豊かにするためなのか、はたまた単なる自己満足なのか、うまくは説明できないのですが「いまさら」読書に勤しんで行きたいと思います。

そもそも"Nothing is too late to start"という非合理な言葉が僕の座右の銘なので。

皆さんは、読書についてどうお考えでしょうか?

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バタフライってもともと平泳ぎだったって知ってます?

こんにちは。

平泳ぎのルールは「左右対称」

本稿の過去記事を見ていて、競泳の個人メドレーメドレーリレーの種目の順番のちがいについてコメントしたものを見つけました。

そのときに、また得意の連想ゲームでバタフライが生まれてきた経緯って、これまた意外に身近なイノベーションだよな、つまり、実務や生活で使えるよなって思ったので、ここに書いておこうと思います。

もともと、競泳の種目は主に3種目でした。

平泳ぎ、背泳ぎ、自由形(≒クロール)です。

ルールはとてもシンプルで、

平泳ぎ:左右対称であること

背泳ぎ:ずっと上を向いていること

自由形:それ以外。

だったわけです。

ルールの範囲でのイノベーション

20世紀の始め、このルールの範囲でオリンピックが開催されていたのですが、タイムを上げるために必死に努力する人の中で、いろいろなことを考える人が現れ始めました。

その中でも最たるものが、このバタフライ誕生秘話です。

バタフライ - Wikipedia

要するに、

「平泳ぎは左右対称なんだから、手をかく時に、現在の平泳ぎのように手を前に持ってくる時に水中を経由するのではなく、空中を経由すれば水の抵抗が少なくてすむわけじゃん!」

と考えて、猛烈な訓練をして実現してしまったヤツがいたのです。

上記のWikipediaによると、オリンピックでは1928年のアムステルダムで銀メダルをとった選手が最初らしいです。

それで、あれよあれよと記録がのびて、1952年のヘルシンキオリンピックではほとんどの平泳ぎ選手が現在のバタフライ的な泳ぎになったそうです。

「これって、別の種目じゃないの?」

ということで、現在の平泳ぎ(手を水中経由で前に戻す)と、バタフライ(手を空中で前に戻す)という2種類の左右対称の泳法が出来上がったというわけなのです。

実際今では男子の100Mの世界記録で見ると、バタフライは平泳ぎよりも8秒近く速いタイムになっています。

ここでのポイントは、同じルールのなかでも少しだけ視点を変えてみると、出来ることっていろいろあるんだな、って思うんですよね。

これって、あるいみすごくないですか?それでいて、コロンブスの卵じゃないですが、やってみたらそんなに難しいことでもない。

ただ、気がついて、実行するだけ。

イノベーション向きの日本人!?

「決まりだから、こうしないといけない」とあきらめてしまう前に少しだけ立ち止まって考えてみると何か余地があるのではないかと思うのです。

状況に対して後追いで、公的機関(競泳だったら国際水泳連盟)にルールをつくらせるくらいの話になれば、武勇伝ですよね。

ちなみに、上記のバタフライの件でも、いわゆるドルフィンキックを考えだしたのは日本選手だった、と言われているそうです。

それ以外にも、平泳ぎで潜水泳法で記録を伸ばしたのも日本選手でした(後に、常にアタマを水面に出していなければならないというルールができました)。

背泳ぎのバサロキックを30メートルやって金メダルをとったのは現在のスポーツ庁長官の鈴木大地さんですし、同じく30メートルのドルフィンキックをやって世界を驚かせたバタフライ選手も日本人でした。これも後にルールで15メートル以内などの制限が設けられました。

ビジネスの実務の中でも、なにかそういうことって見つけられませんかね。

私の知っている大先輩で、契約書一枚につき与えられるインセンティブが発表されたときに、お客さんと交渉して案件を百分割して契約書百枚作ってたくさんインセンティブをもらったツワモノもいらしたそうです。(あ、委細はシンプルな例にしてあります。念のため)
もちろん、翌期からルールがアップグレードされましたが!

 ルールの範囲内で工夫する、って僕たち日本人に向いているのかもしれません。

皆さんの周りにも、そんな例って無いでしょうか?

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