視点が変わると行動が変わる 〜異常に目の良いブラジリアンから学んだこと〜

こんにちは。

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西日本豪雨の翌週末に、実家のある岐阜でこの文章を書いています。

実家も避難勧告が出た地域でしたが、先人たちが作ってくれた堅牢な堤防のおかげで決壊はまぬがれました。

被災地の皆様へのお見舞いを申し上げるとともに、少しでも早い回復をお祈り申し上げます。

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異常に目の良いブラジル人

20世紀の末に、休暇を取って語学研修のためにボストンに2週間ほど滞在したことがあります。

ホームステイ&通学型での滞在だったのですが、同じホームステイ先にブラジルから来たちょっと年上の(当時の僕から見たら)おじさんがいました。

確か語学スクールは違うところだったと思うのですが、朝同じ方向に向かうため駅まで一緒に歩いたことがありました。

その時のことです。

「おい、あれ見ろよ。リスがいる!」

と彼が言い出しました。

彼の指差す方向を見たのですが、どこにリスがいるかはわかりませんでした。

並木道が続き、遠くの方に点々と自動車が駐車してあるのが見えるだけです。

「え、どこどこ?」

と返したところ

「ほらほら。車の下」

「え、どの車?」と僕。

そしたら彼は

「ナンバープレートXXXXの、FordのYYYYって書いてある車の下」

と車を特定したのです。

それを聞いて僕は驚愕しました。

矯正視力1.5の僕にとっては、車があるのがかろうじて見える程度。ナンバープレートなどは存在すら確認できません。

にも関わらず彼は、ナンバープレートを読み上げた上に、車種が書かれた文字まで識別しているのです。

「え?あれが見えるの??」と僕。

「え?見えないの??」と彼…。

おそらく、彼は視力で言えば3.0とか4.0という世界の人なのでしょう。

「その人」が見てるもの

その時思いました。

そうか。彼の見えている世界ってそういう世界なのか、と。

景色を見ても、人の表情を見ても、絵画などの芸術を見ても、僕とは全く違って見えるのだと推察します。

視点や視野が変われば、行動も変わります。

当然ですよね。見えるものが違うのだから。

危険を察知するタイミングも違うでしょうし、何かを確認するための移動距離も違うでしょう。

これを物理的な視点や視野だけに止まらず、もし概念や知識という意味での視点や視野に置き換えて考えてみるとどうでしょうか。

見えているもの、認識しているものが違うと、判断や言動が大きく変わってくるわけです。

例えば、視点の高い人と話すと「え、そんなふうに考えるのか」って驚かされることがあります。

そして、さらに圧倒的に視点の高い人と話すと、それすら想像がつかないのではないかと、思うようになりました。

すなわち「この人変なこと言ってるな」と感じてしまうわけです。

距離がありすぎて自分の見てる景色とは違っているため、なんのことなのかに理解が及ばず、逆に卑下すらしてしまうようなケースです。

いくつか思い当たる節があって、起業しようとしてた先輩の言ってることが当時全然分かんなくて「どういう意味なんだろう?」と思ってたら、超有名な企業になっちゃったりとか、生意気すぎて「なんだこいつ」と思ってたアスリートがスーパースターになっちゃったりとか。

理解の及ばないことって、ちゃんと見極めないと自分が愚かなだけだったりするんですよね。

そこは年齢を重ねれば重ねるほど気をつけなきゃいけない、って自覚しています。

継続学習を通じてアップグレードする

一方で、物理的な視力などと違って、概念や知識などの認識力というのは学習を通してより広く、高品質にアップグレードすることができます。これって我々に与えられた武器ですよね。

より良い判断をして言動につなげるために、視点を高め、視野を広げる訓練をするわけです。

そのために情報収集をしたり、考察したりするのです。

先ほどのブラジル人の例で言えば、視力が(我々からすれば)異常に高いことに対しては、驚嘆したり脱帽して笑うしかないでしょう。

しかし、視点を高めたり視野を広げるって、好奇心さえ失っていなければ、そして物事に対して素直な心で当たることさえできれば誰であろうと、いつであろうと行動を変え、進歩することは可能なんですよね。

皆さんはどう考えますか?

東京豊洲のPHPにて許可を得て撮影。松下幸之助さんの座右の銘だったそうです。

東京豊洲PHPにて許可を得て撮影。松下幸之助さんの座右の銘だったそうです。