「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」と言う教え

こんにちは。

”ばあちゃんの教え”

幼い頃、同居していた祖母との共通の習慣がありました。

夕食後の30分程度の時間、食後に急に動くと体に悪いということで、二人で食卓に残っていろんな話をしていたのです。毎日ではなかったとは思いますが、祖母との思い出はかなりの部分が食卓のシーンです。

話していると、実に当意即妙にことわざや慣用句が出てきて、いろんな「教え」を受けました。「短気は損気」とか「損して得取れ」とか、「千里の道も一歩から」「家の裏庭には、樫の木と花梨の木が植えたる。金は『貸し』ても『借りん』と言う家訓や」とかとか。

今だに自分の行動のDNAに染み込んでいるのを感じます。

その中でも非常にシンプルで、かつ重要な「教え」として残っているものがあります。

「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」というやつです。

これ、あったりまえですが、実行するのは非常に難しい。

幼い頃の僕も「そりゃあ、そうなんやろうなあ」と思いながらも、三歩あるいたらけろっと忘れて弟と取っ組み合いの喧嘩を始めていたわけですから。

今の自分にとっても有効

これって、社会人になっても意外に身近で、生きる教えなのです。

例えば以下のような記事。

blogos.comよくあるランキング記事ですが、その時々の「部下」に相当する人が回答しています。

読んでみると、「あるある」感が炸裂してますから、おそらくアクセス数もかなりのものだと思います。

実はこの手のランキング、自己の能力開発のためによく参考にしているのですが、この20年間ほとんど同じです。

「部下の意見を聞いてくれない」とか「失敗を部下のせいにする」とか、上司にやってほしくないことは時代を通じて変わらないですよね。いつの時代だって嫌なことは嫌です。

より良い上司になろうと考えるならば、うちの祖母が言っていたように「自分が部下としてされて嫌なこと」を上司になってから「部下にしなければ良い」わけですよね。

でも、考えてみると…

時代を通じて変わらない。

つまり、今上司の立場である人が部下の立場であった頃から同じ問題はあったということです。

さらに考えて見れば、ほとんどの「上司」がだれかの「部下」でもあるわけです。

そう考えると「自分がされて嫌なこと」を現在進行形で「部下に対してやってしまっている」人が多いわけです。

これが、この「自分がやられて嫌なことは、人にやったらあかん」と言う教えの優れたところなわけです。

すなわち、「ついやってしまう」のが人間の性(サガ)なわけなんですよね。

個体としての生存本能を残しつつ、社会的生き物としての人間としてのありたい姿を実現しなければならないと言う矛盾が表出した結果、とも考えています。

事実、僕はキャリアとして駆け出しの頃から、絶対に「責任を部下に押し付ける」ことは決してしない、と誓っていました。

しかし、ミドルとして活動し始めた頃のある時、プレゼン中に資料の間違いをクライアント側の社長に指摘されたことがありました。

指摘されたその瞬間、あまり意識せず「パッ」とその資料を作成した部下に目線を送ってしまったことがありました。

それをやってしまった瞬間、自責の念に駆られ、その夜は眠れませんでした。

絶対にやらない、と誓っていても反射的にこういうことをしてしまうわけです。

気をつけてもいなければ、なおさら普通にやってしまうでしょう。たとえ、やらない方がいいだろうと言うことを頭ではわかっていたとしても。

気をつけても気をつけすぎなことはない、と言うことですね。

そう言う意味で、祖母の言葉は改めて真実をついているなあ、と思う次第です。

皆さんは似たような経験、ありますか?