新刊9/14発売決定! 99%シリーズ第三弾『メンタル』

こんにちは。

facebookの方では告知しましたが、来たる9/14に「99%の人がしていないたった1%の』シリーズの第三弾『メンタルのコツ』が発売されることになりました。

それに先立って、主旨を説明している冒頭部分を抜粋してみました。

以下抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はじめに

パフォーマンス向上のための「メンタル」

みなさんは「メンタル」という言葉を聞くと、何を想像されるでしょうか。

世の中には、大きく二つの「メンタル」が出回っています。

ひとつは、職場でよく「あの人、メンタルをやられて休職している」というような使 われ方をする、どちらかというとネガティブなイメージがある「メンタル」です。 読者のみなさんや私を含めた、「組織で働く人」の多くは、職場でさまざまなストレスにさらされ、プレッシャーを受けて、心を病んだり、場合によっては身体まで壊してしまう、そんなケースが身近にあるからではないでしょうか。

私も20年以上のサラリーマン生活を通じて多様なケースを目にしてきましたし、自分自身も気持ちの面で「厳しいな......」と感じる場面をいろいろなかたちで経験してきましたので、そのときのつらさもよく理解できます。 また、メンタルの問題が職場や一人ひとりの社員に蔓延することによる、経営面でのマイナスインパクトも当然無視できません。

そしてもうひとつの意味が、スポーツ中継などで「この選手はメンタルが強い」といった文脈で使われる、どちらかというとポジティブなイメージがある「メンタル」です。 この場合の「メンタル」は、高いパフォーマンスを出すための基盤となる「心の強さ」を指します。 このアスリートの「メンタル」に関連して印象深い話を聞いたことがあります。

着々と準備が進められている2020年東京オリンピックパラリンピック

じつは、東京はその4年前にあたる2016年に行われたリオ大会のタイミングでも立候補して招致活動を行っていました。結果は立候補4都市中3位で残念ながら落選したのですが、その結果が伝わったときのエピソードです。 招致にかかわったメンバーは、事務方と元オリンピック選手組の混成チームだったの ですが、落選が伝わって「ガクッ」と全員が落ち込んだあとの連続写真を見ると、ショックのあまりしばらくうつむいたままの事務方に対し、元オリンピック選手組はすぐに 顔を上げて前を向き始めたというのです。 これが、ものの見事に対照的だったそうです。

このエピソードはさまざまな解釈ができますが、私は次のように理解しています。アスリート、それも元オリンピック選手ともなれば、高いストレスの中で心身を限界まで追い込んで結果を出すことに優れた能力を発揮し続けてきた人たちです。その長い競技生活の中では、勝ったこともあれば、それ以上に負けた回数も多いはずです。懸命に目標を追い続け、その結果敗れてしまったら、本人は心底悔しいでしょう。しかし、こうしたトップアスリートは、すぐに切り替えて次の勝負に向かうことのできる 「メンタル」のコントロールの術を身につけているのではないか、と。本書では、メンタル疾患の回復という視点ではなく、疾患に陥る前に回避し、さらにアスリートのように「より高いパフォーマンスをあげるためのメンタルマネジメント」について考えたいと思います。

メンタルマネジメントでホワイトカラーの生産性を上げる

私は今まで「ホワイトカラーの生産性向上」をテーマに発信活動をしてきました。 現場でのサラリーマン経験を活かし、日々の仕事の中で、ちょっとした工夫をするこ とでホワイトカラーの生産性を上げられるのではないかという思いのもと、『 99%の人 がしていない たった1%の仕事のコツ』『 99%の人がしていない たった1%のリーダ ーのコツ』という書籍を出版しました。 おかげさまでこのシリーズは、電子書籍やコミック版、海外翻訳版などをあわせて 120万部を突破するなど、予想をはるかに超える広がりをもって受け入れていただくことができました。

では、この国のホワイトカラーの生産性は飛躍的に上がったのかというと、まだまだ道半ば。日本の組織には多くの課題があります。 この状況を受けて、日本の社会でもホワイトカラーの生産性の向上の取り組みを後押しする動きが増えてきました。今後年齢を重ねながら徐々に減りつつある労働人口をかかえ、今までより大きな経済を実現するための「働き方改革」の動きはその最たるものです。有名な経営誌でも、仕事の「生産性」を主要テーマに掲げる時代になりました。 また、来るべき「第四次産業革命」と呼ばれる人工知能やIoT(モノのインターネット)が身近になる時代に向けて、仕事のやり方が大きく変化していくのは間違いありません。 そして、こうした大きな「変化」のしわ寄せは、ストレスというかたちで「人」にかかってきます。そんななか、メンタルをいかに管理するかが、これからのホワイトカラーにとっての重要なテーマになるでしょう。

アカデミックな理論と現場感のいいとこ取り

このメンタルマネジメントの領域は、私も組織人としての現在進行形の経験を通じて培ったノウハウを持っています。しかし今回は特に「心」を扱うテーマですので、専門家の力を借りたいと考えました。 そこで、ご自身もオリンピックメダリストであり、米国大学院でスポーツ心理学を学んだ、メンタルトレーニング上級指導士の田中ウルヴェ京さんに共著者というかたちで参画いただき、本書をつくりあげました。 京さんはすでにメンタルコーチとして、さまざまな企業の教育研修をビジネスエリアとして活動されると同時に、国際オリンピック委員会認定キャリアトレーナー、オリンピックメダリストやプロ選手のメンタルトレーナー、最近では車いすバスケットボール 男子日本代表チームのメンタルコーチとして貢献されています。テレビのコメンテーターとしておなじみの方も多いかもしれません。

京さんのアカデミックなフレームワークとアスリートとしての経験に、私の組織人としての経験やホワイトカラーの生産性向上のノウハウを重ね合わせることで、理論と現場感の〝いいとこ取り〞ができたのではないかと自負しています。 本書を通じて、世の中の多くのビジネスパーソンの日々の問題解決に役立てればいいなと、心から願っています。

2017年8月

河野英太郎

抜粋終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

こんな本です。是非ご期待ください!

 

99%の人がしていないたった1%のメンタルのコツ

心的外傷後成長( PTG )〜修羅場体験?

こんにちは。

今週はIBMから有給休暇を取得して場所を移動し、仕事に関連して諸々勉強したり計画したりする時間に当てています。

PTG(Post Traumatic Growth

今後の出版の作業をする中で僕にとっては新しい言葉を学びました。

PTG(Post Traumatic Growth)心的外傷後成長、という言葉です。

これまで似た響きの言葉でPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)心的外傷後ストレス障害は聞いたことがありました。

心の問題を取り扱う業界の言葉なので、素人の僕が余計な解釈を入れるのはちょっと配慮が必要な世界なのですが、以下のように理解しました。

メンタル面で大きな影響を受ける出来事を経験した後の大きな成長(Growth)のこと、です。

自分のキャリアを振り返ってみても、確かに苦しかった時とか辛い思いをした時が成長した感覚はあります。また、もう少し範囲を広げて過ごしてきた時間全体を見渡しても、辛いことを経験すると大きく成長するのだろうな、というのは実感として理解できます。

「トラウマになる」ほどですので、できれば経験したくない出来事なのですが、もし乗り越えた場合には成長しているという側面もあるのだ、という事ですね。

であるがゆえに、企業でも研修や配属の中で「修羅場体験」をある程度肯定的に捉えている組織も多いのだろうなあ、という連想をしました。

この先は「組織主導の」修羅場体験の話

ただ、僕としては、なんかこの組織主導の「修羅場体験」をすべて肯定することに違和感があったので、なんでだろうな、と少し考えてみました。

というのはすべての「修羅場体験」が成功するわけではないような気がしていて、万が一失敗した場合、それこそPTSDとして取り返しのつかないことになりかねないな、という懸念がどうしても抜けません。

場合によっては安易な、または身勝手な「修羅場体験をさせる」という行動が、とんでもない事故を生むことはないか、と思うのです。

それを防ぐにはおそらく、3つほど条件が揃っている必要があるのだろうなと思います。

  1. 本人が納得(できれば希望)したものであること。
    その修羅場体験には本人の納得度が絶対条件なんだろうな、と思うのです。ここは最も意見が分かれるところだとも思いますが、修羅場を強制しかねないところが伝統的に日本の組織の一番危ないところだと思っています。
  2. 論理的に説明できる目的合理性があること。
    得てして修羅場は催眠術にかかったような精神状態になることもあるため、一見本人が「頑張る」と言っていたとしても、客観的にみて異様な修羅場はあまり意味のないものだったりします。
  3. 撤退の自由が本人にあること。
    「お前が望んだんだ、最後までやりきれ」というのは、掛け声としてはあり得ますが、強制になったら逆効果です。あくまでも本人が望み続けた場合だけにやりきる意味があるはずです。

 これらの条件さえ整っていれば、修羅場体験は有効に機能し、PTGに近い超回復が期待できるのではないか、と思います。

皆さんはどう考えますか?

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変わり続けるか守り続けるか 〜考えて、スッキリした週末〜

こんにちは。

週末見たテレビ番組

実はこの週末、NHKの「SWITCHインタビュー 達人達(たち)」という番組を、二週分を一度に見る機会がありました。

この「SWITCHインタビュー」というのは、ご存知の人はご存知とは思いますが、各界の「達人」二人が相手を選んで、お互いがインタビューアーになり合う、という対談形式の番組です。

毎回、その道の達人が話す考えは非常に刺激に満ちており、なるべく見るようにしています。

たまたま週末の方の仕事の関係で纏めて二週分見たというのが以下の2つの回でした。

なかにし礼×野村達雄

www4.nhk.or.jp

種田陽平×MIKIKO

www4.nhk.or.jp

①は日本の作詞界の重鎮と、ポケモンGoのゲームディレクターという異色の対談。(一方で実は深いところで共通点があることが分かります)②は映像と舞台それぞれのプロフェッショナルの演出家(?)対談でした。

内容はそれぞれ相変わらず興味深かったのですが、まだご覧になっていない方は是非再放送他各種手段でご覧頂くと良いかと思います。

変わり続けるか守り続けるか

僕が「お!」と思ったのが、今回、なかにし礼さんとMIKIKOさんが”表現上は”まったく逆のことを仰っていた点です。(この二人が対談したわけではなく、たまたま前週なかにしさんで、翌週がMIKIKOさんが出演されていたというだけですが)

なかにし礼さんはご存知4000曲を作詞していて、何冊も小説を書いている方ですが「一度やったことは二度はやらない」気概ですべての作品を手がけてきた、ということを仰っていました。

一方でMIKIKOさんは、Perfumeや「恋ダンス」、リオオリンピックの閉会式の日本引き継ぎのセレモニーの振り付けを担当されてきた方です。その方が「変に前と違うことはやらないようにしないと、わざとらしくなる」という主旨のコメントをされていました。

僕自身が、会社員をやりながら講師をやったり、作家をやったりしています。これって「違うこと」をやっている側面があると思っています。

一方で、著作は「シリーズ」で出すことを考えているし、講師は3ヶ月に一回りというものを毎期やったりもしていることもあり「守り続けること」もやっています。

といいつつも「違うこと」をやっても、共通の価値や学びを見いだしたり、毎回同じことを繰り返しても新しい発見があったりするのも事実であり醍醐味でもあります。

自分が常に考えていることでもあるので、なかにし礼さんのコメントとMIKIKOさんのコメントのギャップは心に残ったわけですね。

軸を持ち、いろいろ試す

この違いについてすこーしだけそのあと考えてみたのですが、どうやら「表現手段」と「コンテンツ」についてそれぞれコメントされているのだな、という結論にいたりました。

つまり「戦争体験」を主要「コンテンツ」にして歌謡曲や演歌、ポップス、小説などという「表現手段」を複数組み替えてつねに「違うこと」をやっているなかにし礼さんにたいして、「日本人ならではのダンス」という共通の「表現手段」をまもりつづけながら、アイドルの舞台やオリンピックセレモニー、ドラマの挿入歌ということなる「コンテンツ」をあつかっているMIKIKOさん、という対比なのかと。

であれば、単なる「変わる」か「守る」かの二項対立ではなく「変わるところと守るところを見極めた上でのミックス」という結論なのかな、ということで納得しました。

言い換えると「軸を持った上で、さまざまな変化を加えて行くこと」が貴重だ、と妙に納得した週末でした。

皆さんにとっての「変えるもの」と「守るもの」はなんでしょうか。

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忠臣蔵と学問のすゝめ 〜「47人で玉砕」は日本の組織文化か?〜

こんにちは。

今はお盆の季節です。

先祖に思いを馳せながら感謝の念をささげるこの習慣は、僕はすごく意義を感じています。

ふるさとに戻って親しい人と会ったり、お墓参りをしたり仏壇にお経をあげたりすることは、宗教的な儀式以上に、日頃の”精神的な”疲れを癒す良い機会であるのと同時に、温故知新というように、過去を振り返り今に活かす思考を巡らす良い機会だとおもうからです。

赤穂浪士の考えを”正した”福澤諭吉

そんな流れで、ちょっとだけ史実や古典の話を思い浮かべました。

忠臣蔵」で描かれた仇討ちの物語は有名です。今でも毎年12月14日になるとなにかしら映画やドラマなどが放送されています。日本人の好む構図がそこにあるからでしょう。

明治の頃も同じように日本人の間ではこの物語は人気を得ていたようです。平成の現代から見れば300年以上昔のこの物語も、当時は150年ちょっと前という距離感です。時間の流れを勘案すればさらに親近感はさらにあったはず。

それに対して明治の初頭、福澤諭吉はその著書「学問のすすめ」の中で、真っ向からこの出来事をこき下ろします。

主旨はこんな感じです。

  • 暴力に対して暴力で訴える仇討ちというのは、最低の手段だ。
  • 本来赤穂の浪士たちが主張したかったことは「吉良上野介浅野内匠頭の”けんか”が両成敗であるべきなのに、裁判も行われず吉良に一切のお咎め無しであったことを正すこと」だったはず。
  • であれば、死ぬ覚悟ができているので47人、これを目的にあわせて有効活用するべき。
  • 吉良一人を殺して47人が玉砕するのではなく、47人が1人ずつ順番に幕府に訴えればよいのだ。
  • 1人目はダメでも、2人目、3人目と続ければ、江戸幕府もバカではない。訴えを聞き入れ、裁判を行い、吉良側に何らかのお達しを出すだろう

この論には当時もかなり炎上したらしく、福澤諭吉はこれらがもとで一生刺客から付け狙われたという話も残っているようです。

現代の”忠臣”たち。本来はどうすべきか

さて、これ、本ブログのテーマであるホワイトカラーの生産性向上という視点で考えてみましょう。

47人の赤穂浪士の行動の原点には、

「どうせお上は聞き入れてくれないから武力に訴え玉砕するしか無いのだ」という前提が見え隠れします。論理性を飛び越えて感情的に判断しているとも言えます。

当時の情勢がどうであったかは置いといて、冷徹に目的合理性を追求すると福澤諭吉の論点のようになるはずです。

これ、日本の今の意思決定に共通するところはありませんか?

「どうせ言っても経営層は動かない。自分たち現場が頑張るしかない」

「○○部長の言ったこと、オレは間違ってると思うけど、ここは『大人になって』言われた通りやるしかない」

などと、感傷的になってしまい、本来やるべき交渉をしないで現場でながーく働き続けたり、納得いかないままフラストレーションを抱えて文句を垂れながらも気に入らない環境で辞めもせず所属し続けたり。

本来言うべきことを言わない、やらないことを「大人になる」「現実を見る」という表現でごまかしてしまったり。

もちろん、福澤諭吉が刺客から付け狙われるのと同じように、正論を吐くにはリスクがともなうため、勇気や努力、工夫が要ります。

しかしながらそのようなリスクを取ってきた先人がいるから今があり、そのようなリスクを取るために我々が現在存在しているんじゃないかな、仕事の面白さって、そういうところにあるんじゃないかな、と思うことがあります。

皆さんはどうお感じになりますか?

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【臨時告知】コミック版新刊発売! 『まんがでわかる 99%の人がしていない たった1%の仕事のコツ』

【新刊発売!】
今回は、シリーズ115万部超えのベストセラー『99%の人がしていない たった1%の仕事のコツ』のコミック版が8月11日に発売になります!!!
感動あり、笑いあり、涙ありのストーリー展開に「仕事のコツ」を散りばめた意欲的な内容にしあがりました。
なんと、版元ディスカヴァー21としては、初めてのコミックとなります。
是非発売日の「8月11日」にポチッとしていただけましたら!

【おまけ】
原作者としての自分の手を離れ、物語がキャラクターとして命を吹き込まれて独り立ちして行くのを見守る、という得難い経験をしました。
「職場とはこうあってほしい」「若者はこのように育ってほしい」と漠然と思い描いていたことがありありと描かれていています。
今まで以上に多くの読者の皆様にお届けできるのではないかとワクワクしています。よろしくお願いいたします!
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まんがでわかる 99%の人がしていない たった1%の仕事のコツ

まんがでわかる 99%の人がしていない たった1%の仕事のコツ

 

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「怒る」はビジネス用語か? 〜親子関係からプロ同士の関係へ〜

 こんにちは。

部下に「怒る」ことはありますか?

以前、リーダーシップの講演をしたあと、懇親会にも呼んで頂いたことがありました。

その中で受講いただいた複数の方々から質問をいただきました。

講演のQ&Aのなかで僕が

「メンバーを怒ることは絶対にするべきではない」

「子どもに対しては怒るけれども、会社の仲間に対して怒ることは通常の状況下ではあり得ない」

と回答したことに対する疑問あったというのが、その背景です。

営業リーダーの方々が受講いただいた方々の主要メンバーだったのですが、メンバーを「怒る」ことは日常であるし、それを通じて人を育成してくしか方法が無い、ということでした。

①「怒らなくて、どうやったら人が動くのか?」

②「全然成果が上がらない人がいても怒らないのか?」

③「怒る関係の方が信頼していると言えないか?子どもに怒るというのはそういうことではないのか?」

というのが質問のサマリーです。

怒ることには何の意味も無い

これに対して、以下が僕の考え方です。

  1. 前提として、部下・メンバーたる相手は誰かの保護対象となっている「子ども」ではなく、給料を貰っている「プロフェッショナル」である。➡すなわち、一定の責任を担っている。
  2. 一方上司・リーダーは、メンバーの保護責任者の任は果たし得ない。➡キャリアの責任を負うことはできない。自分の元を離れてしまったら、影響力を及ぼすことはできない。
  3. 「怒る」ということは、「強制的に」動かそう、言うことを聞かせよう、という意図の現れであって、プロフェッショナルが内発的に動くことには繋がらない。
  4. 見方を変えると、「怒らなければ」動かないメンバーは、プロとしてその組織に存在する意味は無い。
  5. つまり「怒らなければ」動かないメンバーに対しては、本人のためには別の場を提案するのがリーダーの責任である。➡その場が適切な場ではないため、別の場で活躍することの方が本人のキャリアにとって有効なわけである。
  6. 「怒る」労力があったら、理を尽くして動いてもらうためのロジックを考えるべきである。それが有効でないなら、冷静に淡々と「切ってあげる」方が本人のためである。
  7. 結論として「怒る」というというのは、自分が相手よりも親のように上回っているという前提に立った「思い上がった」行為であり、また相手が本来の能力を発揮できる別の場所で働いて機会を得るチャンスを潰している「卑劣な」行為である。

怒るのには労力が要ります。一方で全く効果がありません。むしろ逆効果。だったらやるメリットは誰にとてもありません。

「怒る」はビジネスの辞書には無い

上記の①〜③に対しての答えとしては

①’理を尽くし、伝え方を工夫して説明することで、納得の上動いてもらうべき。

②’怒らない。成果が上がらない人には怒るのではなく、別の場を提供するべき。リーダーはいちいち怒ってあげるほど暇ではない。

③’「信頼しているから」怒るのではなく、身分制度時代の思考の世界で思い上がっているから怒るのである。怒っていいのは物心つく前の子どもに対する保護責任者だけ。

つまり、「怒る」というのはビジネス用語ではないわけです。

もちろん、組織によっては「怒る」ことでマネジメントしてきた歴史もあるでしょう。しかし時代は変わっています。少しでも近代化するべくリーダーが行動を変えて行くべきではないかと思っています。

これからの世の中、怒らずに人に「動いてもらう」スキルをつけてない人はリーダーになるべきではありません。

これについて皆さんはどう思われますか?

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西施(せいし)の顰(ひそみ)に倣(なら)う 〜ヒンシュク(顰蹙)の語源〜

こんにちは。

初めて繋がったヒンシュクの語源

7月30日付けの日経新聞「遊遊漢字学」の欄でヒンシュク(顰蹙)の語源についてのコラムが載っていました。

このヒンシュクという言葉、もとは「西施(せいし)の顰(ひそみ)に倣(なら)う」という表現が起源なのだそうです。

「西施(せいし)という美人が、病のため顔を顰(ゆが / ひそ)めるのが美しかった。それをまねて顔を顰める人がいたが、逆効果だった。なんでもかんでもマネをすればいいものではない」という故事がもとです。詳しくはこちら

コラムの文脈としては、もともと語源となった故事としては、現代で言えばセクハラに当たるような内容であるが、それを知らない現代人は日常的にこの「ヒンシュク」を使っている。(そんなことを言ったら、それこそヒンシュクかな...)というオチがついた内容でした。

この何でもかんでもマネをすればいいものではない、という意味の方の「西施の顰に倣う」という表現を知ったのは、恥ずかしながら実はつい最近のことで、福澤諭吉著の「学問のすゝめ」を現代語訳した時に出てきたため、調べたのが切っ掛けです。

学問のすゝめ全17編のうち、15編で出てきて、ここでの文脈的には

「文明開化の後の昨今(学問のすゝめ出版当時)、西洋かぶれがちまたにあふれている。西施の顰に倣うというが、なんでもかんでも真似すりゃあいいってもんじゃない」

というものでした。

当時は、脱亜入欧論(アジアから抜きん出て、欧米列強に伍するようになるべき!)の最右翼のように思っていた福澤諭吉なのに、その印象が覆された、という意味で印象に残りました。

今回、この日経のコラムを読んだことで、さらにこの「西施の顰に習う」は「ヒンシュク」という言葉の元になった表現であることを知りました。

極端な二元論はヒンシュクもの?

ちまたでよく出会う「なんでもかんでも論」ないしは「極端な二元論」というのは、「ヒンシュク」なんだな、って紀元前の人も知っていたんだな、という意味で今回すごく印象に残りました。

「なんでもかんでも、欧米流の経営スタイルが正しいって分けではない」という主張をしながら、つい「日本の方が常に正しい」と思ってしまっていないか。

働き方改革なんだから、なんでもいいから早く帰れ」なんてのも、いい例かもしれません。

綱に目的に対して合理的に考えないと、それこそヒンシュクものなんだな、ということを考えた朝でした。

皆さんはどう考えますか?

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