平成泳ぎ納めに思う

こんにちは。

平成30年間続いたことと言えば・・・

あと40時間くらいで平成が終わる、というタイミングでこれを書いています。

ちょっと前、平成の泳ぎ納めをしてきました。

プールを往復しながら、なんとなく自分自身の平成30年間のBefore Afterを考えていました。

昭和64年のタイミングでは15歳の中学生だったので、体重とか体脂肪率とかで比較するとあまり意味のないことになるなー、なんて考えていた時に、「じゃあ、平成30年間続いたものって何だろう?」という問いに至りました。

シンプルに出てきたのが、僕にとってはやはり「泳ぐこと」でした。

平成30年間で、住んでる場所は岐阜の実家や東京都内、あと二度ほど中期の外国滞在を含めちょうど10箇所になります。

主な所属組織は、中学から始まり大学、会社・・・転職とか同時並行とか出戻り、買収、起業・・・まあたくさんです。

その間、良き友人や恩師、親族、仕事仲間などに恵まれやってこられました。

激動の時代、とかVUCA時代とか言いますが、よくまあ基盤をあっちこっち変えながらもここまでやってこれたな、とも思います。

一方で、自分のキャリアについて時々考えることとして「フラフラしてるな」って思われてるんじゃないかな、ってことです。

自分自身でも両親から受け継いだ価値観に照らし合わせると、「フラフラしてる」キャリアであり、当初望んだことじゃないのは明らかです。

社会人になって所属組織を変えていない人はたくさんいます。そしてそれはとても羨ましく、またとても素晴らしいことと思います。

その人の「軸」に当たるものが客観的に明らですしね。

じゃあ、この平成の30年間、自分に一切「軸」はなかったのか。

そう問うてみると、すんなり出てきたのが冒頭書いた「水泳」でした。

軸は「水泳」(笑)。

国の代表選手になったことはないし、インターハイにも行ってません。

競技力的にはお恥ずかしいレベルではありますが、小学4年生から干支が3回りするまで続いてます。高校時代と、特に大学時代は本当に没頭しました。

生活のプライオリティだったわけです。

水泳が人生に与えた影響

人生を変えるような転機でも、水泳は大きく影響しています。

  • 高校選択の時は、他にも色々と理由はありましたが、あの糸井大先生(後に息子さんの方が有名選手になるのですが!)がおられる名門!?岐阜県立岐阜北高校を選びました。<平成元年>
  • 大学受験の時に一人で上京した際には、高校の県大会のリレーで獲得した賞状を持参しました。(これは忘れていたのですが、糸井先生の喜寿をお祝いする会で先生から聞きました。そういえば、某商業高校にも勝った記憶が)<平成4年>。
  • 大学の時は、旧7帝大戦という対校戦の幹事校の主将として、今度のオリンピックでも使われることになる辰巳水泳場を借りて、大会を運営しました。会場手配から広告集め、当日の進行まで一連の運営を経験したのです。<平成7年>
  • この経験から電通という会社に興味をもち、入社することになります。
    しかし、絵に描いたような敷かれたレールの上を23年間歩んできたのに、ドロップアウトすることになります。最初の人事に対する不満から電通をすぐに辞めてしまい、「軸」を探すことになtたのです。<平成9年>

ここで、どうやら社会人としてキャリアを積んでいくには「水泳」という軸以外に何かが必要だ、ということも悟りました。(本来は当たり前なんですけどね)

ただ、同時にチーム運営の難しさや望まぬ人事を経験し、すでに「人・組織」という後年確立するもう一つの「軸」の萌芽は確実に芽生えていたのですが、この時は自覚していませんでした。

  • そして、アクセンチュアIBMという組織の中で、脇目も振らず働きました。その間、職場の内外でとても多くの皆さんにご指導いただきました。同じく職場の内外で偉大な元水泳選手との出会いもあり、その関係はいまだに続いています。<平成9年から現在まで>
  • その間も合間を縫って泳ぎ続けました。いつも泳いでいるブリジストンスイミングスクール品川との出会いもこの頃でした。<平成17年>
  • そして出版。
    これも大きな人生の転機なのですが、きっかけは水泳つながりです。ブリジストンスイミングスクール品川がアクアマリン品川だった頃、同じレーンで毎週泳いでいた水泳仲間の田中ウルヴェ京さんのご紹介で、初めての本の出版に至りました。<平成24年
  • 40歳を目前に入ったグロービスでも、なんと創業者の堀さんは競泳の国体選手。ここでも水泳部に所属してます。そしてそこから様々なネットワークが広がっています。<平成20年代後半から現在>

ここに書いただけでは足りないくらい、平成を通じて折に触れ水泳つながりだなあ、と思う瞬間が多く訪れました。

30年間よく続いたな、と思います。

今も毎週末泳いでいて、これがないと1週間がまとまりません。

よくも冬場の寒い時期に泳ぎに行くね、なんて言われますが、リズムになっているので一年中泳いで、体調や心のバランスを取っているのです。

水泳と切っても切れない人生なわけです。

水泳を始めた機会は、母が嫌がる僕を無理やり開業したばかりの近所のスイミングスクールに放り込んだことでした。

当然ながら、あの瞬間がここまで人生にとって重要なポイントだったとは当時は全く自覚してませんでした。

母にも感謝ですね。

感謝しつつ

さらに言えば、「平成」という時代の象徴として体を張って仕事をしてこられた天皇陛下の、ご自身の誕生日でのコメントにもあるように、平成が戦争のない平和な時代だったから、平和の象徴であるスポーツを続けてこられたんだと思います。

いみじくも平成7年、戦後50年の年に開催した前述の旧7帝大の水泳大会。

僕は幹事校の主将として、開会式の選手宣誓の大役を担いました。

この年は戦後50年というだけではなく、1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があり日本国内が揺れに揺れた年でもありました。

神戸ポートアイランドにあったプールの建物が倒壊した煽りを受け、関西の大会日程がずれたため、7大学のうち京都と大阪が参加できない事態が起こったのです。

7大学揃わなければ7帝戦ではない、と不参加を検討する他大学もありました。

ここでも決断することを迫られました。21歳の青年にはそこそこ大きな決断だったと思います。

相談した大先輩方は「お前が全責任をもって判断したらそれを支持する」と言ってくれました。そして前代未聞の5大学の参加での実行に踏み切りました。

プリンシプルに則って判断することの大変さや重要さを学びました。

そんな背景もあり、件の選手宣誓では万感の想いを込め

「戦後50年のこの年に、平和の中で水泳ができることへ感謝をしつつ、国を作ってきた諸先輩方に恥ずかしくないよう正々堂々戦うことを誓います」

と宣誓したのを覚えています。 国立大学ですしね。

平成の30年間は自分的には沢山泳ぎました。ざっと計算して7,000㎞弱かな、と。

残りの人生泳ぎ続けますが、一年100㎞を維持して生涯10,000㎞を目指したいな、って思います。

平和の中で泳げること、そして水泳という素晴らしいスポーツに感謝しつつ、令和でも頑張って泳ごうかなー。

(このゴールデンウィークは、平成滑り納めと令和滑り初めのために山にきてますw)

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