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分かりやすさを追求する 〜漢語を開いてみる〜

こんにちは

「見識」とは

先日「見識が乏しい」という言葉を目にしました。

確かに良く目にする言葉で、何となく分かっている気がしているのですが、よーく考えてみるとどういう意味だっけ?と立ち止まってしまいました。

見識?

分かっているようで分かってないなー、と。

そこで辞書を引いてみたのです。曰く

「ものごとを深く見通し、本質をとらえる、優れた判断力」

だそうです。

少しわかったような気がしました。

ここからまた「本質」って何?とか言い出すとキリがありませんが、少なくとも自分の中でスッキリするところまでは深堀りできたわけです。

「分かる」の定義は個人差がある

僕自身はどちらかというと物わかりが悪い方で、会議などで人と会話していていも、まわりが「そうだよねー」とうなづいていても、自分だけ分かっていないことがよくあります。

若い頃は、分かった振りをしてあとから誰かに聞いてみたり、場合によってはそのままにしてしまったりしました。と同時に物わかりの悪い自分に腹を立てたり、自信をなくしたりしたものです。

でも歳をとって、だんだん開き直ってきたら、言えるようになりました。

「すみません、僕だけ分かってないのですが、XXってどういうことですか?」

と。

これが言えるようになると、ものごとに対しての理解が深まりましたし、時々僕と同じ悩みを抱えている人に喜ばれるようになりました。

「あ、それ私だけじゃないんですね」

と。

「わかる」のレベルは個人差があるとおもいます。先ほどの例で言えば「本質」という言葉が出てきたら、更にそれを深めていきたいと感じる人もいるでしょうし、逆に見識だけでも十分と感じる人もいるでしょう。

肝心なのは自分が納得するということ。

分かりやすいは、レベルが低いと同義か?

で、本稿で言いたかったことは、多くの人に向けて発信される文章や音声などの言葉は、できるだけ多くの人が理解できるレベルまで説明するべきではないか、ということです。

よく、僕の書籍は「分かりやすい」と言って頂けます。

なるべく漢語をつかわずに、大和言葉をつかうようにこころがけ、熟語は開いて余計な論文口調は回避しています。

たとえば、「組織における」という漢文の書き下しのような表現は避けて、「組織の」とします。「文章を修正する」よりは「文章を直す」とします。

それだけでより多くの人に読んでもらえるようになります。

ロシアの文豪のドストエフスキーの著作で「カラマーゾフの兄弟」という大作があります。難解な印象があり、一生読むことは無いだろうと思っていましたが、亀山郁夫さんという元東京外国語大学の学長でもあった方の翻訳を手にとったとき、目が開けたおもいでした。「分かる!」と。

おかげで大作と出会い、一気に読破するという経験ができました。そしていろいろ考えることができました。亀山さん、ありがとうございました。

同じ想いをした人は日本中にたくさんおられると思います。

難解な表現をすることは、誰のためでしょうか。馬鹿だと思われるのが怖いのでしょうか。それともそれしか書けないのでしょうか。ついて来られる者以外には読んでほしくないのでしょうか。

まあ、考え方次第でしょうね。少なくとも僕は哲学書だろうと、文学史上に燦然とかがやく大作であろうと、時代時代に合わせて分かりやすくあるべきだと思っています。

皆さんはどう思われますか?