純粋さとか、若さとか、一生懸命とか一心不乱ってやつ

こんにちは

関東の小学校では特に運動会のシーズンですね。

アツい戦い(?)

週末は大変天気も良く、僕も保護者として観覧してきました。

熱戦が繰り広げられ、中には負けて悔しくて涙を流す少年少女たちがいて、そんな姿に心から応援したくなります。

どの保護者の方も同じなのかもしれませんが、観戦している間にタイムトリップして自分の小学生時代を思い浮かべるのが僕の常です。

僕の場合はくっきりと2つのシーンが思い浮かびます。どちらも運動会競技そのものとは違いますが…

1つは、小6の時に運動会の翌日にぶっ倒れたこと。

もう1つは小2の時に、一学年上の4人にボコボコにされたこと。

常にトップギアの若者

小6の時のことは、こんな感じです。

小学校生活最後の運動会は最初から最後まで全力投入で頑張ったのでしょう。小学生だから翌日に響くから抑えめに、なんて考えません。

当時は平日に開催され、翌日は普通に授業があったはず。

黒板を見ていたら視野が暗くなって、頭がボーッとしてきて、気分が悪くなり、手を挙げて許可を取って保健室に行きました。

途中すれ違った先生に「おい、顔真っ青やぞ!大丈夫か?」と声をかけられたのを記憶してます。

結局、若いから、少し休めば回復したんでしょうね。それ以後は特別な記憶もないのでそれだけで終わったんだと思います。

社会人だったら、「ぶっ倒れるまで打ち込んだら、周りに迷惑かかるだろう。そういうのはプロって言わない」などと言われそうですね。ってか今の僕なら言ってると思います。

とは言え、ぶっ倒れるまで打ち込めること、持ってられるのはホント羨ましいし、素晴らしいことだなとも思ったりします。

で、意外にそういう面を今も備えている自分に気付くこともあります。

いつも基本は少数派

もう1つの小2のときのことは、こんな感じです。

秋の運動会は小学校主催のと地域主催のと二種類あったのですが恐らく後者だったと思います。なぜなら記憶の中に学校の先生が全然登場しないから。

シーンは運動会が行われてるトラックの少し離れたところ。観戦してる僕に上級生が「なあなあ、ちょっと来て」と手招きします。

当時の顔も記憶してるし、4人とも漢字で名前が書けます(笑)

呼んでもらって嬉しかったので「なになに?」とついていきました。

案内されたのは砂場。

「もしや」と思って砂場の真ん中あたりに目を移すと、どうやら大きな落とし穴が掘ってあって段ボールでフタがしてありました。その上に砂で目隠しがしてある様子が見て取れたのです。

当然、こちらはその穴を回避する行動に出ます。が、その気配を察知した4人は僕を取り囲んで組み伏せ、穴に無理やり押し込もうとしました。(この時点で「落とし穴計画」は企画倒れなのですが…)

さすがに不意打ちの四対一は、勝てません。砂を頭から被せられるので目や口、鼻に至るまで砂が入ってきて…

この時点でアドレナリン出まくりです。というか、今でも思い出すと脈拍が上がってきます。

当時の僕は一旦その場からの離脱を試みました。走って逃げました。

そして、親がいる見物席に戻ろうとはしてみたものの「勝つまで帰ってくるな」って言われそうだし…

何よりもだんだんカーッとアタマに血が上ってきました。そして、怒りのあまり完全にキレました。

口の中の砂や、服の中に入った砂を落とした後、回れ右。まだ砂場にたむろしているその4人に向かって全力疾走し、飛び蹴りから入りました。

その時点で1人は傍観者化しましたが、逆に不意をつかれた体の残りの3人とぐっちゃぐちゃの大げんかになりました。

猫とか犬がもみくちゃになりCats and Dogs 状態になってる感じでした。

当時はあんまり殴るって手段は取らなかった気がします。服引っ張ったり髪の毛引っ張ったり引っ掻いたり蹴ったり噛み付いたり。

計画的に喧嘩するというよりは、使える体のパーツは全部使って暴れる、って感じです。

しばらくしたら、周にいた大人たちが見かねてこの猛犬状態になった僕を引き離します。

引き離されながら、その人たちに向かって「離せ、離せー!」って叫びながら犬みたいに上級生たちに吠えまくってたのを覚えてます。

「バーカ」とか言いながら遠ざかっていく、その4人に向かって

「逃げるなー!逃げるなー!」。。。

ここでやめたら負けたことになってしまうのが嫌だったんだと思います。

 「大勢で一人をいじめたらあかんやろ」とその大人の人がその子たちに言ってました。

それを聞きながら、心のなかで「オレはいじめられてない!」と僕。いろいろ納得いかない。

「えらいぞ、上級生に立ち向かって」

なんて言ってくれたのがせめてもの救いかな。

もうちょっと続けていたら、どうなってたでしょうかね。

 

何故だか分かりませんが、自分の子どもの運動会に参加すると毎回これらのシーンが思い浮かびます。

自分がそういう少年だったからだとは思いますが、僕は一途に頑張る若者や、負けたら素直にくやしがる少年少女たちが好きです。

と同時に自分のそういうところ、年とともに失いたくないな、と思っています。

みなさんは、どうですか?

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それやると、誰が嬉しいの?に答える

こんにちは。

今週はいつにも増して多くの人たちとお会いして、交流を深める機会が多かった週でした。

意見交換をする中で、刺激を受けることも多くありました。

キャリアのことだったり、価値観のことだったり、マーケティングのことだったり。様々なレベルで情報のシャワーを浴びて、考えるヒントを得られました。

あらためて思いましたが、こういう機会を定期的に持つことはいいことですね。

「アイデア」か「わがまま」か

そんな中で、日頃の行動の中で感じている疑問をある経営者に質問してみました。

「意見を用いるべきか、却下するべきかの迷う時がある。個人の尊重とわがままの抑制の境目という点で基準は設けているか?」

これって、日頃感じるジレンマなのです。

新しいアイデアが「却下」されるときって、役に立たないのに単に「やってみたい」とか「面白そうだから」という理由だけで言っている、すなわちわがままだととられたときだったりしませんか?

自分が意思決定側にまわったときに僕はそういう判断をしたくないので、出来るだけ理解をして採用するスタンスをとりたいわけです。

ただ、当然ながらイノベーションって「新しいこと」ですから、やってみないと分からないという側面があります。

とはいえ、それを盾にわがままを通すのはあってはならないことです。

で、それが本当にイノベーションを起こすようなアイデアなのかそれともそうでないのか、この境目が分かりにくい、というのが僕の疑問の背景です。

たしかに...

で演壇に立っていたその経営者は、僕の質問に対してこう答えました。

「まず、仕事というのは誰かを喜ばせるためにやるもの。お客さんだったり、社員だったり、株主だったり。だから、まず『それをやったら、誰がうれしいの?』と問います。」

なるほど。確かにその通り。そして彼は続けて言います。

「その答えが『自分がうれしい』だけだったら、それは却下です。」

これも、なるほど。ですね。

なんか自分が抱えている問題の解決にむけたヒントになったかな、と。

というか、至極自然で、あたりまえのことと言えるかもしれません。

その後、しばらく自分の中でこのやり取りを反芻して、僕がアタマのなかで整理したことしては、

「日々の雑事にかまけて、つい当たり前のことを見過ごしてしまっていないか。」

ということでした。

今回のように、ある人の視点を借りて考えてみるとか、一歩下がって見渡してみる機会をもつ、というのはアタマでは分かっていたり、余裕がある時には実施できたりしていることなのです。

しかし日々の雑事や”忙しさ”にかまけていると、ついそのような機会を逸してしまいます。

心していかないとな、と考えた週末でした。

皆さんは、そういう機会はありますか?

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報われなかった努力を思い出すのは辛い

こんにちは。

いやー、今までよく失敗しました。

ひょんなことから、過去の自分のキャリアを思い返す機会がありました。

いや、いっぱい失敗してきました。

軽い失敗はあまり覚えてませんが、一生懸命やったことでうまくいかなかったことって、すごく覚えています。

ふとしたキッカケで、そのいくつかの失敗のシーンが鮮明に記憶が蘇り、ため息が出たり顔をしかめたくなるような感覚になったり。

多くの場合時間が経てば痛みは和らいできますが、直後は血圧や脈拍にも出ますし、眠れなかったり人を恨んだりさえします。

新しい事業の立ち上げや、肝いりのチームを任されたことも何度かあります。

それぞれでうまく行ったこともあれば、うまくいかないこともありました。

長い時間や労力を注ぎ込み、私生活を犠牲にしてたりやキャリアをリスクにさらしてやったことって、うまくいくと本当に嬉しいものですが、そうでなかった時は、むちゃくちゃ辛いです。

「あの時、ああすればよかった」と後悔することもたくさん出てきます。

その中でも究極の後悔は「あんなチャレンジ、しなければよかった」というやつです。そもそも、チャレンジしなければ失敗しませんからね。

そのチャレンジのために使ってしまった時間を、別のことに当てていれば、もっと充実したキャリアが築けたのではないか、と思うこと何度もあります。

チャレンジやめますか?やめられません。

では、チャレンジするキャリアをやめますか?と言われたら「はい、そうですね」というわけにはいかないのが自分の性分です。

どうやらナチュラルボーンらしく、保守本流で、ひとところに着実にということがどうしてもできないタチです。

自動販売機でも左上側のメジャーな飲み物には手が出ません。

下の端の方にある、新しく発売されたばかりの変わった飲み物のボタンを押してしまう性分なのです。

チャレンジ無駄ですか?無駄じゃないです。

一方で、失敗してきた期間が全く無駄であったか、というとそうでもないのです。

当たり前ですが、全く同じ失敗をしないように努力します。

だから同じ「ような」失敗はしたとしても、少しだけレベルの高いところで失敗しています。

要するに痛い目を見て、それなりに学んでいるわけですね。

だから、チャレンジすることは本当に重要です。言い方を変えれば、そんなに必要度の高いものだから、チャレンジが特別なことであっていいはずがありません。

選ばれた人たちにしか与えられないチャンスでもないし、常に血の滲むような、髪を振り乱すような状態なわけでもない。

例えば、ほんの少し今とは違ったことをやる。今まで温めていたアイデアをまず実行してみる。新しい人と接点を持ってみる。そんなことの積み重ねでも十分チャレンジですからね。

言ってみれば普通の、当たり前のことなのです。

とはいえ学ぶためだけにチャレンジしているわけではありません。成功するためにチャレンジしてるんです。

だから「いろいろ学べたから、このチャレンジはよかった」では、一生秘密兵器で終わってしまいます。

失敗を経験しながらも、同じような失敗を減らして成功への精度をあげて、目指すものに近づいていくことがポイント。そうすれば、次のチャレンジの成功確率が上がったり、より高いレベルでのチャレンジへの意欲に繋がったりするわけです。

実際に僕自身を振り返ってみると、辛い経験の一つ一つが今に繋がっていて、新しいチャレンジをする上でも様々な形で活きています。

…というような考え方のもと、今までの自分自身のキャリアの辛かった失敗の記憶を前向きに捉えるようにしているわけです。

皆さんにも、そんな経験あるのではないでしょうか?

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パレスホテルでの朝食会・ニューオータニでの昼食会 〜ミッション・ビジョンの重要性を再認識他〜

こんにちは。

先週は、仕事で二度にわたりホテルでの食事会に参加しました。

それぞれ朝食会と昼食会で、どちらも日本の名だたる会社の人事担当役員を中心とする経営層の方々が集まる会でした。

最近、日本でもHR Techというキーワードがかなり盛り上がっています。

従来、「勘と経験」が活きる「アートの領域」として、テクノロジー業界からはラストリゾートと言われた人事の領域でも、AIを中心とするテクノロジーの進歩や、人事の担当の皆様の意識の改革により、とうとうXX Techの流れがHRの中にも本格的に入ってきています。

どちらの食事会も、その流れを明確に感じる会合でした。

中でも3つほど、印象に残るポイントがありました。

①ミッション・ビジョンの重要性

②ジョブディスクリピション(職務定義書)の必要性<そろそろ、本格的に>

③パワーモーニング・パワーランチの意義

です。

ミッション・ビジョンの重要性

働き方も含めて多様性が深まっている昨今の組織において、やはりミッション・ビジョンといった「人が集まるための根本的な理由」の部分に焦点があたっていると感じました。

集まった人たちが組織上のトップであったりシニアエグゼクティブであった、という部分もありますが、新しい働き方や、新しいテクノロジーというテーマでの座談会でこのキーワードが踊る、というところにポイントがあるのではないかと思います。

何か、改革を進めるにあたって立ち戻るポイントが無いと、ただでさえ多様な働き方、価値観、思考を持った人の集団ではバラバラになってしまいますからね。

議論の端々にこの一段高いところの議論がでてきて、凄く印象に残りました。

ともすると「あれはあれ、これはこれ」という形で棚上げされたり、そもそも自社のミッションやビジョンを知りもしない人がいたりする中で、改めてミッション・ビジョンに立ち返ることの重要性を認識したわけです。

ジョブディスクリピション(職務定義書)の必要性

これについては、従来も議論はされてきました。

そして「あったらいいけど、メンテナンスに手間がかかる」「職務を明記して限定してしまうと、他に何もやらなくなる」という文脈で本格導入は先送りされてきましたが、そろそろそれも限界のようです。

ほんのちょっと前は、同じようなレベルの人が集まる場で僕が発言したら「何を言っているんだ。日本の組織にはJDは必要ない」的な反応を受けることが多かったのですが、この1,2年で状況は一変したように思います。

日本の伝統的な大企業の代表のような会社のトップから「役割や責任は明記しないといけない」というコメントが何度もあったのです。

これは従来無かったことです。

今まで日本の職能資格制度は、かなり機能してきました。

何となく大体この辺をやればいい、という定義の中仕事をしてきても、単一人種・単一言語・男性のみ(妻は専業主婦)・新卒一括採用・残業無制限の中では、うまく行くのです。

でも、コレが全部崩壊しました。

センターフライは、外野全員で取りに行くもの!という考え方も通用しなくなったのです。

さらに、AIの時代です。

AIはご存知の通り、「5年目の社員」という言葉だけではその人が何ができるか分かりません。職能的文脈での「課長」が何を求められるのかも理解できません。

誰が何を出来てで、何を求めているポジションかが明文化されていないと、マッチングも難しいわけです。

複数の「時代の要請」から、もう変えられない流れなのではないか、と感じました。

パワーモーニング・パワーランチの意義

最近、朝食やランチの時間も人と会って仕事の話をするコトが増えています。

とはいえ多くて3,4人での会合が普通でした。

が、今回は10人を超える人たちの会合だったのです。

飲み会などでは6人を超えると話題が二つ以上に分かれます。原因はお酒が入っていることだと思うのですが、これはこれで意義のあることだとは思います。

また、お酒が入っているとあまり真剣な議論が長続きしなかったり、参加できる人が限られてしまったり、また、だらだらと長引いてしまったりします。

これが、1時間ちょっとの会合で、最後まで話題が複数に分かれること無く、有意義な議論ができました。

当たり前のように活用している人に取っては当たり前すぎる話なのかもしれませんけど。

これ、自分でも使ってみたいなあ、と思った次第です。

皆さんはどう思われますか?

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十六銀行とIBMの関係の始まり 〜宿帳に50年前の祖父の足跡を見る〜

こんにちは。

エグゼクティブ向け迎賓施設

今年のGWは天城にあるIBM保有のエグゼクティブ向け施設「IBM天城ホームステッド」から始まりました。

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この場所は、IBMのお客様を中心とする、会社や組織のエグゼクティブレベルの方をお迎えするための施設です。

訪問されたエグゼクティブの皆様は大変喜んでくださることが多く、評判も良いです。サービスは某有名ホテルにお願いしているため、品質も凄く高いのが特徴です。

そして、今年で開所50周年ということでした。

僕自身はIBM生活10年ちょっとなのですが、実はこの施設のことは40年近く前の幼い頃から知っていました。

それは、子どもの頃から同居していた祖父が、晩酌の時によく良い思い出として話してくれたためです。

当時、十六銀行の取締役庶務部長をやっていた祖父が、この施設にIBMから招かれて「たくさん勉強」させられて、そのご縁で20億円だかの稟議を上げてIBMのシステムを発注したということです。50年前の20億円って相当なものだったと思います。

以来、十六銀行IBMの長年のお客様でいてくださいます。

いい意味で、相当印象が強かったようで、何度か聞かされた記憶があります。

同じコースの出席者であったソウル大学の学部長の方と意気投合し、天城からの帰り道は、東海道新幹線のこだまの駅ごとに降りて、居酒屋で酒を飲んで、何時間もかけて岐阜まで帰ってきた、と言っていました。

宿帳に祖父の署名と写真が

IBMに入ってからこの施設には何度も来ることはあったのですが、祖父の足跡を確認できたことはありませんでした。

で、今回天城でイベントを開催するにあたり、主催者として少しだけ早く現地入りした際に、天城の担当者の方に上記のいきさつを話して、顧客データベースはあるのかを聞いてみました。

そしたら、その話を喜んでくれた担当者の方が、過去の宿帳を見せてくれました。

最初は「探したのですが見つかりません」と言われたのですが、祖父の”達筆”は知っていたので自分で探させてもらいました。

そしたらなんと、あったんです!懐かしいクセのある字でした。

日付は昭和45年6月13日。この日付をもとに写真も探し出してくれて懐かしい顔を見ることができました。

ちょっと感動しました。

いま僕がつけている時計は祖父の形見ですので、同じ時計してないかな、と思って写真の袖口を見てみたのですが、ちょっと分かりませんでした。

約50年前に実施された「エクゼクティブのための電子計算組織概説」という4泊5日のコースだったようです。

現代であればさしずめ「CIO向けIT組織経営入門」といったところでしょうか。

業界用語で言うところの「銀行一次オンライン」のまっただ中だったはずで、日本が戦後の荒廃から立ち上がって、さらに上を目指そうとしていた時代のことです。

出席簿を見ると、同じコースに参加した人も錚々たるメンバーが並んでます。(もう機密情報じゃないと思うので写真掲載しますね。)

使命感もあっただろうし、忙しかっただろうし、やりがいもあったんだろうなあ、なんて孫なりに、いろいろ想いを馳せてみました(笑)

語り継ぐために

今、自分自身が中堅からシニアに映りつつある世代にあって、「前世代」「オジサンたち」として旧い世代として扱われたり、「これからの世代」として次の時代の担い手としてあつかわれたりする微妙なポジショニングにあります。

世代論の、ある意味での説得力と、ある意味での空しさを、ここ最近感じることが多くなりました。

若い頃結構、前の世代を攻撃したり、うらやんだりしてました。「高度成長期はよかったよな」「バブル世代はうらやましい」なんて。

一方で、今は後から来た世代からちょっと違う言い方で同じようなことを言われているのを感じたりします。

そんななかで、血縁者のいにしえ(!?)の足跡を見て、これだけは言えると思いました。

前の世代が無ければ今の我々は無い。それぞれの人がその時々に最善の選択をしてきてくれたらから今の自分たちがあるのだ、と。

より良い世の中を作って次の世代に引き継ぐ、というのは全ての世代に求められることなんですよね。

皆さんは、どう思われますか?

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筋肉痛は不快な痛みか

こんにちは。

筋肉痛は心地よい!?

本稿を200回以上書いてきているのですが、「同じことでも人によって感じ方や捉え方が違う」という”認識ギャップ”について、書くこと多いです。

そういうギャップを発見するのが、楽しいんですね。

今回も、ご多聞に洩れず認識ギャップの話題です。

ズバリ「筋肉痛をどう捉えるか」

なんでこんなこと考えたかというと、最近ある人と筋肉痛について話題になったときに、その人が筋肉痛を「不快な痛み」と捉えている様に思えたことがきっかけでした。

なので、念のためどう感じているかを確認したところ「不快である」というのが答えでした。

それどころか「不快に決まっているだろう」という反応でした。

試しに、僕の周りの他の人たちに訊いてみても、どちらかというと不快と感じる人の方が多い印象。(この辺り、実際はいかがでしょうか!?)

これが、僕には新鮮な発見でした。

当たり前ですが今まで、筋肉痛になったことは何度もあります。今でも週に1度程度は筋肉痛になります。

これを不快と感じる人がいること自体が「へー!」って感じでしたが、どうやら大人になると、そちらの方が多数派かもしれないというのもこれまた大きな発見でした。

筋肉痛とは、僕にとっては健康のバロメーターであり、体を動かすことによって発生する成長の証の様なもの。

筋肉痛になっていないと、不安ですらあります。

しかし多くの人にとっては疲労の象徴であり、不快な痛みである、と。

この違いを大へん興味深く捉えました。

そう考えると、体の痛みや発熱をどう捉えるかとか、音や匂い、光や振動などいろんな刺激をどの様に認識するかによって人の行動って大きく影響されるのだな、と改めて感じました。

筋肉痛を肯定的に捉えれば、運動をし続けるという行動に現れます。ときにやりすぎることもあるでしょう。

一方で筋肉痛を否定的に捉えれば、無理な運動を避けて平穏な暮らしを送ることになるはずです。

ホワイトカラーに当てはめると…

こういったアイデアを、ホワイトカラーに置き換えて考えてみるのが僕のクセです。

ホワイトカラーの仕事の仕方にも、認識ギャップありますよね。

よく、働き方改革の議論でも話題になります。

世の中には仕事が苦痛と捉える人がどちらかというと多いでしょう。しかし一方で仕事が好きでたまらないとか、徹夜明けのあの気だるさが快感、という人もいると思います。

大きなイベントが終わった直後にも普通に働く自分が当たり前、という人もいます。

どんどんチャレンジして、失敗する。それを繰り返すことが好きという人もいます。

理由はおそらく、それが自分の成長につながると思えるため、とか、そうしている自分が好きだから、というものでしょう。

そんな人が結構いて、大きな成果を出していたりします。

同時に、周りにも自分と同じレベルの働き方を要求して「人を潰してしまう人」というレッテルを貼られている人もいます。

でも、その人はこう考えています。

「こんなに楽しいのに、なんで仕事しないの?」

「よっしゃー、キタキタ。一緒に朝まで頑張ろう!な!」

言われた方は、感じ方が同じ人であれば一緒に楽しめると思いますが、そうでなければ苦痛以外の何物でもないわけです。

冒頭の筋肉痛の捉え方と違って、チームで動くためには、この認識ギャップは埋める必要がありますね。

じゃあ、どうすればいいか。

じゃあ、どうすればいいかというと…いつもの「基本に立ち返る」というやつです。

認識の違いを埋める方法って、なんでもそうですが、まず話し合いだと思います。

話し合うためには、お互い相手を理解する必要があります。アタマから否定してしまうと話し合いは成立しません。

世の中には仕事が楽しくて仕方がない人もいれば、仕事は苦痛なので、生活さえできれば人生における優先順位は高くないという人もいます。

ただ、お互いを理解した上で、自分の価値観を周りに強制しないことが重要なわけですね。

自分の価値観の周りへの強制というのは、例えば「自分は仕事が楽しいので、周りも同じ様に楽しむべきだ」と考えたり「仕事はあまりしたくない。でも残業代は欲しいし、一番早く昇進したい」などと考えたりすることをさします。

唯一強制される価値観というのは、組織のバリューとかミッション、社会通念上の道徳と言った、多くの人に認められた”共通価値観”的なものだけです。(これが、明文化されてなかったり、環境に応じて変わってくるので注意が必要ですけど)

っていう感じで、少しでも多くの人が相手の価値観を尊重する様になれば、チーム内の認識ギャップは減って、組織やチームの目標達成も円滑に進むのではないでしょうか。

なんてことを考えた今年のゴールデンウィークでした。

(ちなみに、僕は筋肉痛を不快と捉える人に対して、当たり前ですけど筋肉痛を強制する様なことはしません!そういう人がいるのは、初めて聞いたときは意外でしたが、普通にそういうもんだろうな、と思います)

皆さんは思いますか?

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仕事が早い人は、作業が速い人か?

こんにちは

聖地巡礼?原点回帰?

最近ちょっと仕事が重なることが多くて、もろもろ後手に回るようになってきたなー、と思うことがありました。

「こう言う時は、基本に立ち返るべきだ!」と思い、自著をパラパラとめくってきました。

99%の人がしていないたった1%の仕事のコツ

すると、Chapter. 1の4項目に「早め早めにチェックを受ける」というタイトルがありました。

「お!」と思い、読んでみるとなかなか良いこと、言ってます。

Chapter.1は「報連相のコツ」がテーマなので、「作業者の立場の人」を主人公に想定して、この人がどういうタイミングで上司とコミュニケーション取れば良いか、という立て付けで書いています。

方向性が変わる前になるべくチェックを受けろ、とか、悪い話は早めに耳に入れて対処方法を相談せよ、ということです。

ただ、これって現場作業者だけにいえることではありませんね。

逆の関係(リーダーからメンバーへのコミュニケーション)であってもそうですし、依頼主とそれを受けた側の間のコミュニケーションにも該当します。

必ずしも作業自体のスピードは問われていない

仕事が早い人(短期に仕事を終えられる人)というのは、どういう人か、という問いに対しては、つい

  • 「キーボードを早く打つ人」とか
  • 「調べ物をしなくても、知識が膨大にあって探さなくていい人」
  • 「頭の回転が速くて判断が早い人」

というように、作業そのもののスピードが速い人を想像しがちですが、現場では必ずしもそういうわけではありません。(もちろん、無関係ではありませんが)

多くは、

  1. 「無駄なことをしない人」
  2. 「手戻りが少ない人」
  3. 「問題を大きくしない人」

です。

自動車で例えるなら特に、F1のようなとんでもないエンジンを積んでいる必要はなく、通常のエンジンでいいわけです。

ただ、必要な時に動き、早めに軌道修正しながら正しい道を選ぶことさえできれば。

F1のエンジン積んでても、間違った道を猛スピードで突き進んだり、直ぐにこわれてしまっては意味が無いですからね。

これを、ちゃんとやってさえいれば、小型乗用車のエンジン相当の作業能力でも、相当早く仕事が終わるわけです。

「今日の1分」は明日の5分、明後日の50分、来週の5時間

で、冒頭触れた「早め早めにチェックを受ける」に戻ります。

ここでは、早めにチェックを受けるためには、着手は早めにする必要があります。

が、ついついものごとを先送りにしてしまうのが人間の性。

依頼を受けた時にさらっ、とやっておけば、1分の作業で済んだものを、放置していたため、相手の期待値も膨らみ、イライラもたまります。

中には反応が遅いことそのものを「問題行動」としてあちらこちらに触れ回る人も多いでしょう。

翌日には丁寧な返答文を書く必要ができて5分の作業になり、2日後には上司を巻き込んで50分、翌週にはちゃんと事態を整理した資料を作成して5時間かけて関係者への説明にあたらなければならない、ということになりかねません。

1分と5時間は300倍。とてつもない差です。

そして「5時間のおおごと」にしてしまうと、多くの場合周りの人がその対処に巻き込まれます。

他人の時間を、本来は発生しなかった、無駄とも思える尻拭いの仕事に巻き込むのは、他人の人生を削っている行為に近いですよね。

ただ、直ぐに対処すれば良かっただけなのに、他人の人生を縮めてしまうなんて...

自戒を込めつつ。こんなことを考えた週末でした。

皆さんはどう思われますか?

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