「ポリシー」と「変なこだわり」は違うわな。

こんにちは。

「蜀」の地で考えた

今、休暇を活用して中国四川省省都である成都に来ています。

三国志に出てくる劉備玄徳や諸葛亮孔明が活躍した、蜀の首都でもあります。

とはいえ三国志の旧跡を訪ねる旅ではなく、成都に旅行することが決まってから調べたら「三国志で有名らしい」ということがわかって、漫画を30巻買って予習した、というのが実際なのですが。

ただ、やっぱり多くの人の心を打つだけあって三国志は面白かったです。

僕は劉備玄徳は情の人、諸葛亮孔明は理の人という感想を持ったのですが、皆様はいかがでしょうか?

 で、その情の人である劉備玄徳ですが、時々理屈に合わない「非常に人間的」な意思決定をする人です。

彼の人間的な意思決定の基準が「義」とか「忠」とか「誠」とかに基づくから、人々に好かれるんだろうなあ、と思うわけです。

「利他」と言い換えてもいいかもしれません。そしてこれが彼のポリシーなんだろうな、と。

彼のような人は、まさに人間性で引っ張るタイプのリーダーですね。

物事を判断するときに、基軸となるポリシーって重要だと思います。

ところで「ポリシーを持っている」というと聞こえはいいですが、この「ポリシー」と「変なこだわり」との違いって、何だろうか。って考えたことあります?

なぜか成都まできて、そんなことを考えました。

よくこういうときに自分で考えるのは「目的に対して合理的であるかどうか」が判断基準である、というものです。

そうすると、それこそ「合理的」に判断できると思います。

劉備玄徳が人の心を打つ理由

ただ「劉氏による中国統一と漢王朝の復活」をともに目標に掲げたはずの劉備玄徳と、諸葛亮孔明が一見異なる判断をしがちである、というのはなんでなんだろう?とも考えました。

ここが、ポリシーの違いなんだろうな、と。

劉備玄徳は、「劉氏による中国統一と漢王朝の復活」以外にもう一つ大きな原点を持っていました。

桃園の誓い、というやつです。

桃園の誓いとは (トウエンノチカイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同、同日に死せん事を」

これがあることで、最終的には命を落としてしまう原因になるような判断をしてしまいました。(と僕は解釈しました)

もちろん「変なこだわり」とは言いませんが、大目標である「劉氏による中国統一と漢王朝の復活」の足かせになったように思います。

これって、我々の日常の判断にも似たようなことありませんか?

「あいつとだけは、一緒に仕事をしたくない」とか「週末は絶対仕事しない」というやつ。

これって、ポリシーなんでしょうか?変なこだわりなんでしょうか?

基準なんて無いのかもしれません。

が、あえて言えば「利他」と「利己」の違いだったりしないかな、と思うのです。

劉備玄徳は「民」や「義兄弟」と言った他者を利することを重んずることが多かったように感じます。

あなたの「ポリシー」は利他の要素が含まれているでしょうか。それとも「利己」の側面が多いでしょうか。

皆さんはどう思われますか?

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