こんにちは
今回も読後感になるのですが、最近の僕自身の興味の対象である「人の、認識のしかた」について関連する本を読んだので考えたことを整理してみたいと思います。
読んだ本はこれ。
飛び跳ねる思考
高校時代の同級生がSNSにアップしていたので、興味をもちました。
僕がこれを読んでいたら、妻がそれを見て反応してきました。妻は著者の東田さんとテーマにしたドキュメンタリーをテレビで見たということでしっていたようです。
「会話ができないほどの重度の自閉症」という東田さんがPCを活用して自分で書かれたものです。
(僕は、この領域の研究者ではないし、難しい領域ですのでこの文面も気をつけて書こうと思います。)
彼の各文章は文章は大和言葉中心に書かれていて格調が高い一方で、難解な言葉を使っていないためすっと入ってきます。
固有の世の中の見え方
東田さんの文章を読めば分かるのですが、「自閉症」である人の世の中の認識のしかたがところどころに書かれています。これが僕に取って驚きとともに発見でした。
ある独立のモノを見ているのに、それが背景にとけ込んで見える、とか時間軸が前後するため昨日あったことが今起こっているように感じられる、とか。
で、読み終わったあと僕が持った感想の一つに「自閉症」と「自閉症じゃない」はデジタルに切り分けられているのではなく、程度問題なのではなかろうか、というものでした。
同じものを見ても、取り方はそれぞれ。周りの人からは「え?」と驚かれるような解釈をするひともいるでしょう。それが新しい発見に繋がったり、発想の転換や、社会の発展に繋がるのではないだろうか、って思うのです。
ピカソの絵は、僕には見えないものを平面に表現していますが、本人には見えているのではないか。
同じ場面を描いているのにそれを歌や音楽で表現したいと思う人もいれば写真で表現したいと思う人もいるでしょう。
ビジネスにおいても
ビジネスにおいても、同じ事象(例えばプロジェクト)を見ても、技術に目がいく人、お金に目がいく人、人間関係に目がいく人、業務プロセスに目がいく人など様々です。
僕の場合はどうしても人に目がいくので、それに近い仕事をやろうとします。
色んな人が集まってチームですからとても面白いですよね。
世の中の認識の仕方が異なる、それが程度問題だとするとそれは「個性」と置き換えられると思います。
で、今回の学びなのですが、意見や行動の違いは「個性」であるという立場に立った場合、自分の発想と異なる発想をするひとと接点を持つときに、受け入れられるのではないか、ということです。
「なんでそうなるの!?ふざけてない?」とか
「まじめに考えているのか。もう少し成長しろ!」
と僕が思うことでも実は当の本人はとても自然な発想をしていて、何も悪い意図は無いのではないかと考えるようになれました。
目を転じれば僕自身だって、外部から見れば「君の発想がわからない」「ふざけているのではないか」という側面だってあるでしょう。たまに、そういう指摘を受けることもあるので...
「嘘つき」「政治屋」への対処
以前この場で「嘘つき」とか「政治的に動きすぎる人」を僕は軽蔑する、と書きました。
もちろん、その人が意図してやっている場合はやはり軽蔑します。
しかし、もしかして周りから見た「嘘」も本人に取っては真実かもしれません。政治的に動くというのも、本人はよかれと思って真心から動いているかもしれません。
ですので、その背景にある意図を見極める必要があるでしょうね。
意図的な「嘘つき」「政治屋」は意図を是正させて成長を促す。
ナチュラルボーンの「嘘つき」「政治屋」は害があるのであれば残念ながら退場いただくしかないのでしょう。ですが、周りの多くが「嘘つき」「政治屋」で成り立っているとしたら...それがマジョリティのコミュニティなのでしょう。
すなわち、あなた自身がマイノリティなので、その場はあなたにはふさわしい場ではないのでしょうね。
皆さんはどう思われますか?