こんにちは。
同学年のスーパースター
よく、日常会話で世代や年齢の異なる人に向けて、自分はどの年代の人間であるか説明するときに、有名な人で例えること、ありますよね。
僕は1973年生まれです。
その時代に物心ついていたり、大人として活躍していた人に向けてなら「オイルショックの年です」とお伝えするのが一番わかりやすい。
あとは「僕の一歳の誕生日に、長嶋茂雄選手が『永久に不滅です』という引退スピーチをしました」とお伝えすると、おーなるほど、と言ってもらえます。
が、同年代や若い人たちにはその手は使えません。
若い世代でも、よく知る同年代の有名人・・・
となると、最もわかりやすかったのがプロ野球のイチロー選手でした。誕生日は確か1週間くらいしかかわりません。
同い年なのに、二十台の若者に混じって走ったり跳んだり、打ったり投げたりしている人がいるというのは尊敬に値するし他人なのに誇らしい。なんかプラスのエネルギーをもらっていた感じがしました。
だから、先日の彼の現役引退は、僕ら1973年生まれの人は感慨深い思いを持って受け止めた人、多いと思います。
当然かく言う僕もその一人でして、引退試合や記者会見は見られるものは見ましたし、ネットで全文掲載してくれたので、改めて読んだりしました。
人との比較ではなく、自分基準での評価
普段から、キャリアや働き方について考える生活をしているため、どうしてもその視点で見てしまうわけですが、イチロー選手の「生き方」について問われた時の、以下の答えが非常に印象深く残りました。
『人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。
あくまで測りは自分の中にある。それで自分なりにその測りを使いながら、自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって。』
比較対象は自分の限界である、と言うわけです。
決して誰か他の人や、他の誰かが与えた何かではない、と。
なるほど。頭ではすぐに理解できます。すごくシンプルですので。
とは言うものの、じゃあイージーなことであるか、と言うと全然イージーではない。
我々は幼い頃からいろんなものと比べられて育ってきています。
「同級生の〇〇ちゃん」との比較から始まり、偏差値とかなんとかランキングの中で育ち、「学生らしさ」などの「らしさ」との比較が始まります。
そして「まっとうな社会人」とか「世間さまの目」、相対評価などとも。これだけ長い間色々なものと比較されると、その呪縛から逃れるのは簡単ではない。
一般的に「比較される」と言うことは、自然に自分も誰かを「比較評価しちゃっている」わけで、自他共にかなりのインパクトで我々の行動を制約していることは間違いないです。
僕自身も若い頃は結構、そういうことありました。その結果、焦ったりマイナスの嫉妬をしたり、なんだかわからないプレッシャーを勝手に感じてしまったり。
当時はまだSNSの広がりもなかったので、入ってくる情報も少なくて比較対象も少なくて済んだのですが、今の時代だったらさらに焦ってたのかなあ、なんて思います。
また、比較しなくなるというのは、常に良いことかというと必ずしもそうではないと思っています。
他人との比較が唯一のモチベーションの源泉だった人が、もし一切他人と比較しなくなったら、成長が止まるわけですからね。
イチロー選手の凄さはそこなわけです。
勝負の世界にいるにも関わらず、他の選手との比較ではなく、そして他の誰かが設定した何かとの比較ではなく、「自分の限界」というものとの比較をしているわけですから。
シンプルだけどイージーじゃない、ものすごい比較対象です。
それもかなり若い頃からその片鱗があったというのがさらに驚きです。
おそらく、自分の限界との勝負となると、周りからのノイズは聞こえにくくなるとは思うのですが、そこはあっちこっちから追いかけられるスーパースター。周りもほっとかないわけですから、プレッシャーは半端ないと思うんですけどね。
どんなメンタリティーの持ち主なのか、本当に興味があります。
僕も、この同学年のスーパースターの姿勢を見習って、誰かとの比較や世間の常識ではなく、自分自身で立てた目標にさらに近づいていけるといいなあ、と思う桜が咲き誇る年度末の静かな夜なのでした。
みなさんはどう思われますか?