こんにちは。
思うところあり、ちょっと古風な思索を巡らせてみました。
「体育会系」は悪か?
ここ数年、特に2018年はいわゆる「体育会」という概念、思考法、組織文化、行動様式がかなり評判が悪かったように思います。
少なくとも僕が目にした文脈では、思考停止の典型であったり、理不尽の象徴であったり。そんな描かれ方をしていました。
僕は、いわゆる体育会系学生、すなわち運動部の活動を生活の最優先事項として学生時代を過ごしました。伝統に関していえば国内ではダントツに長い水泳部の主将を務めた経験があります。
そんな僕自身の学生時代を含め、先のような批判を受けるに値するような思慮に欠く行動があったことも認めざるを得ません。(あくまでも、僕個人の問題かつ考え方です。)
また、当時の悪しき伝統や至らなさを次の世代の若い人たちが、知恵を使って改善していることもよく知っており、それに賛同し応援もしています。
この一見変節とも思える考え方の転換は、多分に社会に出てからいわゆる「体育会系」とは程遠い、むしろ対極の文化を持った組織(主に「ガイシ系」と呼ばれるエリア)でキャリアを築いてきて、嫌が応にも視野が広がったことにも起因していると思います。
社会に出た初めの頃は思考や行動のギャップに苦しみながら、色々考え、つどつど自分の中で整理してきたわけです。
そんな背景のもと、今回改めて、ちょっと考えてみました。
- 昨今世の中で言われる「体育会系」というレッテルは本当に正しい見方なのか?
- 「ガイシ系」経験を経た今の目から見て、全く参考にならない意味のない組織文化なのか?
そういう観点で考えると、そんなことはない、って思うんです。本来の体育会には理不尽さや思考停止などではない、もっと崇高な精神があったと信じています。
巷で体育会系と混同される”ブラック”組織は、本来の体育会の精神とは真逆の考え方だと思っています。
なので、ルールを違えることは許されないし、嫌がる人に何かを強制するのはやるべきでないということは前提です。
本来の「体育会魂」的なもの
体育会の圧倒的な意義として、三つほど重要なポイントをあげられます。理論として整理しているわけではないので、列挙になります。
いわゆる「体育会」で若い頃の多くの時間を過ごしてみて、こんな学びがありました。
- チームの仲間は絶対に裏切りません。
そんなの当たり前じゃないか、と言われるかもしれませんが、僕は社会人生活の中で、平気で人を裏切る人を見てきました。
積極的、消極的どちらの意味でも人を裏切る人は多いものです。
しかし本来の「体育会系」は、例え意見が違おうとも、同期はもちろん先輩であろうと後輩であろうと、チームのメンバーよりも他の人を優先することは絶対にありません。同じ釜の飯を食った人は守り通すと言うのが体育会のオキテ(笑)ですので、体育会の人は絶対に裏切りません。
もちろん切らなきゃいけない時はあります。ただし「裏」切るのではなく、正面から切り掛かります。
同時に、裏切った者は「基本的には」許さないし、「ずるい」とか「卑怯」な行動は最も信念に反する行動ですので、誤魔化したり謀略的に動いたりするなどの行為、これについては怒りとともに心底嫌悪します。
- 一つのことを深く究めようとします。
学生時代のほぼ全ての期間にわたり、ある競技に打ち込むわけです。食事、睡眠、栄養、思考全てがそれぞれの目的を達成するために研究し尽くされます。文字通り「四六時中」「寝ても覚めても」そればっかり考えるクセがついています。
社会に出て、寝ても覚めてもある一つのことを突き詰める人材が不要なはずもなく。
物事を極めるために既存の枠を外れ、海を渡ったり、法律を改正したり、事業を始めたりする人も多いです。
巷に誤解のある、ゲタを履かせてもらって入社した企業に定年までぶら下がる、というのは体育会精神に反します。
- 社会の役に立つことを旨としてます。
これは、解説が必要だと思います。
体育会の学生は、学生時代から何十年も上の大先輩と交わる機会が何かと多いです。時に杯を酌み交わし、時に(不謹慎かもしれないですが)その方とのお別れも経験し、活きた歴史を知り社会を知るわけです。
また、校歌や応援歌、部歌や寮歌などを耳にしたり自分で口にする機会が圧倒的に多くなります。そうすると自然と建学の精神や、会うこともなかった大先輩の熱い想いに触れることになります。そういう力のあるコトバに接すると、自然に考えますわな。どういう想いでこの詩や曲を作ったのか、って。
大抵は国や社会、世界のあり方をより良くしようとして教育機関を作るわけです。並大抵のエネルギーであるはずもなく、そういうエネルギーに接すれば、当たり前のようにあるべき社会の姿や、それに対する自分の姿勢を考えるようになるわけです。
ご覧になって分かるように、「まっすぐ」とか「紳士」「武士道」と言った言葉が当てはまりがちな人を生産する集団なわけです。
当然です。「そうあれかし」と育てられていますので。
これが、尊敬する代々の先輩から僕が受け継いだ、一般用語でいう「体育会魂」です。
平成の次の「体育会系」
ただ実は冷静に考えると弱点もあって、いわゆる体育会集団は、かつてのようなモノカルチャーの時代は力を発揮してきましたが、現代の環境に十分に適応しているかというとそうではない側面も多いです。
端的に言えば、「オキテだろ!」って言っても日本人以外の人は「は?」と思うでしょう。「裏切る」の定義も、文化によって全然違うでしょう。
平成の次の時代を生きる、新しい世代の「体育会系」の人たちは、受け継いだものの上に、少し知恵を加えた考え方を身につけて行かなければならないのが現実です。
ま、体育会系の弱点≒自分の弱点でもあるわけで、その辺りを改良していかなければなあ、と僕自身考えることがここ数年増えているってことなんですけどね。
著作などを通じた発信活動・社会への提案活動の原点には、このような背景もあるんです。
皆さんは、どう考えるでしょうか?