手垢のついた言葉の深いヤツ

こんにちは

ヒーローインタビューから

先日、オリパラのピョンチャン大会のテレビ放送を見ていて、子どもがこんなことを言いました。

「なんで、メダリストはインタビューで『支えてくれた、全ての人に感謝』って口を揃えていうのかな」

なるほど。

僕も若い頃、こんなこと考えてたな、と思い出しました。

スポーツで何かを成し遂げたひとや、きびしい選挙戦を戦って当選した人なんかがコメントする「感謝の気持ち」というものに対して、つい「よそ行きのコメント」「優等生コメント」という解釈を少なからずしていたのです。

でも今では少しだけ、何かやり遂げた人が口に出す”一般的な”感謝の言葉の言葉の重みがわかる気がします。

何かを一生懸命頑張ってみて、自分でできることはほとんど試してみて、さらにそれでも間に合わないときに、誰かの支援があったとき。それが、どれほどありがたいか初めて分かるわけですからね。

僕のような凡人には経験を通してしか分からないことってあるのです。

「手垢のついた言葉」の重み

この『支えてくれた、全ての人に感謝』というようなコメントを、あえてここでは「手垢のついた言葉」と呼んでみます。

チームスポーツの選手がよく言う「メンバーを信じる」というコメントも同様です。

メンバーを信じることがどれほど大変か、つらい時にメンバーを疑ったり、失敗を他のメンバーのせいにしそうになる時を幾度も経験しないとその言葉の重みは分かりません。

だから、経験が浅いときには「表面的な言葉」とだけ、映るのです。

 他にも「子どもを信じる」なんて言葉も、思春期の子どもをもって改めてその言葉のおもみを噛み締める毎日です。

手垢のついた言葉、っていう意味では「イノベーション」なんて言葉も、駆け出しの頃はよく使ってましたが、その言葉の重みを理解するにつれあまり使えなくなりました。でも最近、その言葉をさらに深く理解した気がしたので、自分なりに意味を持たせて使う頻度を上げてきたような気がします。

それに気付くと、人の見え方も変わってきたりします。意味を持たせて強い思いで発信している人の言葉が理解できるようになります。

同時に、それまでの自分の未熟さを痛感したりします。

コレに類する言葉って、まわりにあふれてますよね。

言葉って、使い方や状況などで重みが変わります。

たとえ「手垢のついた言葉」でも、重みを持たせてつかえる大人になりたいものです。(とはいえ、こだわりすぎると無口になっちゃうので、ペラペラしゃべりますが!)

こんなこと、考えたことありませんか?

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