ゆとりの轍を踏まない、働き方改革世代の時間の使い方

こんにちは。

以前(だいぶ以前)、テレビでこんな光景を目にしました。

ゆとり教育”の影響

通称”ゆとり教育”の振り返り番組だったと思うのですが、その教育を受けた世代に該当すると思われる若者が、”大人”に向けて

「ゆとりで育ってしまった私たちは、どうすればいいのですか」

という質問をしていたのです。

それに対して大人が、答えに窮しているように見える演出でした。

家庭や学校の現場が、当時の文部省の意図とは少し異なる動きをとってしまった結果、十分な知識を得ることなく、とはいえ「生きる力」も不十分なまま義務教育を終えた、というこれまた意図せざる効果が出てしまった、と言うことで理解しました。

一方で、講演などで人前でお話しするような機会に「ゆとり世代」と言う言葉は安易には使わないようにしています。

「世代」でステレオタイプで区切ることは、何かを言い表してはいますが、その世代全員を説明しているわけではありませんからね。

事実、文部科学省の当時の方針とは関係なく、多くの知識の上に立った上で考える力を養うという方針で、教育を続けた私学や民間の教育機関を通じて学んだ児童・生徒、学ばせた保護者も多いようです。

その教訓を今に当てはめると

上記の分析は、いずれもデータに基づかない、僕の持つ印象にすぎない解釈ではありますが、大枠正しいとして、この経験から次のようなことを考えました。

同じことの繰り返しが、今の日本の職場で行われている「働き方改革」でも起こってしまわないよう注意する必要があると思うのです。

「働き方改革」についての政府の意図を僕が解釈すると、

  1. 低い生産性でダラダラ仕事するのではなく、高い生産性で効率よく仕事をしましょう。人口減ってるんだし、高齢化してるんだし。
  2. とは言っても成長はしなきゃなんだから、浮いた時間で何か他に生産的なこと、しましょう。(人生百年時代に備えたリカレント教育とか、起業とか、複業とか)

と言うものです。

あたりまえですが、単に今までと同じやり方を続けて、早く帰るんじゃあ、投入時間が減った分成果が下がるだけですからね。

さらに、全てが無駄な仕事や非効率な職場ではないのは明らかなので、一律に時間を減らすのはキャリアの浅い人の「スキル育成」の機会を奪っているともいえます。

間違っても後から

「働き方改革世代の私たちは、大事な時期にスキル獲得できませんでした。どうしたらいいんですか?」

って言わせることの無いようにしないといけません。

ただ、すでに社会に出ている人たちは、児童・生徒と違って保護者がいません。

時間の使い方は全て本人に責任があります。

というか、本人が自由にできる権利があります。

この「政府からプレゼントされた時間」をどのように使っていきましょうか!?

まさか、早く帰れるからと言って遊んでばかりいる人はいないでしょうけれど、一方でもっともっともっと本が売れたり、社会人大学院に行く人が増えたりしてもいいんじゃないかなぁ、って思います。

みなさんはどう思われますか?

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