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もと水泳選手として 〜究極の個人競技か?〜

こんにちは。

水泳の強みとは

日本水泳界の偉大なスーパースター北島康介さんが現役を引退されたニュースはご存知の通りです。

この日本選手権兼オリンピック選考会期間中は個人的には、記録は遠く及ばないとはいえ。人生のうちの数年間ではあったけれど水泳が生活の優先順位トップであったことのある人間(僕の勝手な「アスリート」の定義です)として、そのアイデンティティを強く感じる数日間でした。

それに関連して同じく陸上界のもとスーパースターである為末大さんが面白い(かつちょっとうれしい)コメントを書かれていました。

tamesue.jp

彼がコメントしている”水泳選手”とはトップスイマーのことであるのは分かっていますが、後半の方で水泳選手のことを

「水泳選手のカラッとした性格が好きだから」

「スポーツ選手で発言をしている選手は水泳選手が多い」

「水泳は個人競技ながら社交性が高い選手が多い印象がある。結果として、人脈ができ、発信力が高くなり、世の中にメッセージを伝えられるイン フラが出来...」

と褒めてもらっているのがうれしかったです。

これを読んだときに二つほど考えた事がありました。

一つは、水泳をやった事で自分の内面にどういう影響があったのか。

二つ目としては、他のスポーツへの目線についてです。

水泳には、幾つかの競技があります。オリンピック種目になっているものでは、競泳、水球、シンクロ、飛び込みなどが有名ですが、僕がやったのは競泳ですので、競泳の視点から考えていますので悪しからず。

メンタリティへの影響

一点目について。

水泳は究極の個人競技だと思います。

飛び込んだらコースロープの間には自分だけで、意識的に見ない限り競争相手は見えません。具体的な音も聞こえず、見えるのはプールの底と壁くらい。言い方を変えると誰にも邪魔されることなくシンプルに自分との勝負です。

つらいから力を抜きたいと思えば誰に遠慮する事もなく力を抜く事ができます。一方で力を抜けば(周り次第ではまぐれの勝利は転がってきますが)時計が冷徹に評価します。

これはかなり僕の今の性格に影響しているな、と思います。

拘束や支配を受ける事が極端に嫌いです。納得いかない事をやろうとしても全く手足が動きません。普通に発熱して寝込んだりします。

(最近は大人になったので納得すべきときには納得できるような理由を必死で探す努力ができるようにはなりました。それがどうしても見つからない時には必死に、なんで納得できないかを探します。)

結果は、誰かの意思ではなく自分の責任だと言う意識も強いです。時計が客観的に決めるものだからあとには引きずりません。為末さんが「カラッとしている」と言われる所以でもあるのかなと思います。

しかし、一見矛盾しているのですが、実はチームで動くのが好きです。

学生時代はキャプテンをやっていて、だいぶ苦しみました。当時は個人競技をチームでやることの矛盾がこの苦しみの原因だと思っていました。

でも、競泳競技の中で最も盛り上がるのがリレー種目なのです。僕自身もそうです。

4人の個人種目のタイムを繋げるという、言ってしまえばそれだけの違いなのですが、異常にもりあがります。普段個人で鍛えてきたメンバーが唯一繋がる瞬間だからなのかも知れません。たいていの選手が、個人のとき以上の泳ぎをするものです。

今回の日本選手権も、一発勝負の決勝で上から4人の合計タイムが派遣標準を切っている事などを条件に、リレーのオリンピックメンバーとして選出されたのですが、

http://www.swim.or.jp/upfiles/1443664430-rioolympic_standard_and_selection_151001.pdf

ある選手のコメントで「この4人で行きたかった」というのがありましたが、ホンネのコメントだったと思います。

 究極の個人競技だけに、水泳選手は実はチーム活動が好きだったりするのです。

他の競技のうらやましいところ

まあ、ここまでは単なる自分の振り返りですが。。。二点目の「他の競技を見る目」については、

為末さんが競泳を観察してくれたように、実は僕も他のスポーツの(元)アスリートを興味を持ってみる事があります。

「自分とはちがうな」と思いつつ「いいなあ」と感じるのがラグビーのコミュニティと、空手やボクシングなどの格闘技系の人たちです。

特にラグビー出身の人たちの輪はグローバルでもなんか統一されていて、一本とおった雰囲気があるのを感じます。プライドというかスピリットというか。

また個人的には、そういう人たちとは全くちがう人種であるにもかかわらず瞬時に打ち解けられるのを感じます。

違いの中にも共通点

そう考えると、ダイバーシティインクルージョンと今よく言われますが、違いはありつつも、共通のものを見いだすことだったりするのではないか、なんて今この文章を書きながら思いました。

それが「企業のミッション・ビジョンの実現のために集った人たち」が「一時期スポーツを追求する事が生活の優先順位であった人たち」置き換わっただけなのでしょう。

そう考えると一見排他的に見える、究極の個人競技のアスリートたる水泳選手がリレー競技が大好きなのも説明できる気がしました。(説明的には、だいぶ飛躍しているので今後の検討課題ですね。)

こんなこと、考えるのは僕だけでしょうかね。

皆さんはどう思われますか?

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