こんにちは
最近、考え続けてきたことがあります。
よく言われる「自分らしさ」というやつの扱いです。
「自分らしさ」追求のジレンマ
自分の信念や方針を曲げて何かにあわせることを「自分らしくない」と言うと思います。同時に、そういう時は、皆「自分らしくありたい」と願うと思います。
僕も実際そうです。不本意に人の言いなりになったり、やりたいことをガマンしたりするときによく思うのです。常に「自分らしく」いられたらどれほど素晴らしいだろうか。ストレスもなく、何かに没頭できるのではないか。そういう場面は、本当にしょっちゅうあります。
と、同時に逆のことも考えます。「自分らしく」あるのは、単なるわがままの追求なのではないか。今主張しようとしていることは、自分のエゴのごり押しに過ぎないのではないか、と。
自分のわがままだけの為に人を巻き込んで、社会や他人の人生、キャリアなどにマイナス影響を起こす人が「自分らしく」あることというのは害悪以外の何者でもないのではないか。そうなると「自分らしく」あることに、大きな抵抗を覚えます。
多くの大人がそのジレンマの狭間にあるのではないでしょうか。そしてその多くの大人の、「冷静な」結論としては「巧くバランスをとりましょう」というものなのではないでしょうか。
じゃあ、どの辺でバランスを見極めると良いのでしょうね。ここ最近、気がつくとそんなことばかり考えていました。まあ、簡単には結論は出ません...
大人の「自分らしさ」追求
ですので、ちょっと命題を変えて、
『常に自分らしくあった子供の頃を経験し、自分を抑え社会に適合することを学ぶ思春期以降を経て社会に出るという道筋をたどった大人は、どのような条件が整ったら「赤ちゃん帰り」をせずに「自分らしく」あることができるのだろうか?』
について考えてみることにしました。
現時点での僕なりの整理は…
『自分のために「自分らしく」あること』の追求は幼児段階。
その後迷いの時期を経て
『誰か(何か)のために「自分らしく」あること』の追求ができることが責任ある大人の目指す姿。
分かりやすく言えば、自分の利益のことだけ考えること、もっと分かりやすく言えばお金だけのためにわがままを通すのは幼児の「自分らしさ」追求。
ぱっと見ではわがままを通しているように見えるかもしれませんが、他人や社会のために主張しているのであれば、それが大人の「自分らしさ」追求なのだという整理です。
さきほど定義した命題に回答するとしたら
『「社会に発信しても恥ずかしくないビジョンを持っていること」が「自分らしさ」を追求していい条件』
ということになります。
この、幼児の「自分らしさ」と大人の「自分らしさ」追求の違いは、外形的は見えにくいのですが、得られる尊敬やついていく人の数に大きな差ができるはずです。
そう考えることで、いろいろな疑問に一つの答えが出るし、自分の中のジレンマが解決できました。
皆さんはどう思いますか?