結果平等と機会平等 〜休暇取得にまつわる配慮から派生して〜

こんにちは

休暇を取っていたので前回の投稿が一昨日になり、間が空いていませんが今週末もアップします。

「申し訳ありません」休暇を「頂き」ます

ちょうど、休暇をとっている時にFacebookのタイムラインに以下のような記事が流れてきました。

この記事自体は、日本の組織の「ねたみ」「ひがみ」文化をメインテーマにしていますが、休暇を取るためにも「ねたみ」「ひがみ」を意識した配慮が必要、という意味の言及がありました。

たしかに、休暇を取るときかなり職場には気を使いますよね。気を使うだけではなくて実際に電話したり、メール返信したりと、動いてしまうこともあります。

そうすると、リモートだし、時差もあったりするので100%のクオリティで仕事ができるわけでもなく、家族視点で考えても明け方に起きだして原稿を書いたり、電話会議をしたり、場合によってはイライラしたりされると落ち着かないでしょうから、休暇の目的も100%達成できているかと考えると反省するところも多いです。

休む時は休む、仕事する時は仕事する、と割り切って両方巧くこなしたいですよね。それには「休んでしまって申し訳ない」という気持ちを持つ必要のない組織文化にしたいところです。

横並び意識の根源は部活?

ここで、そもそも自分だけが休暇をとって周りに申し訳ない、という意識はどこから生まれてくるのだろうか?という疑問がわきます。

この記事をきっかけに、少し考えてみたのですが、この「横並び意識」とでも言うべき感情はもしかしたら中学や高校、大学の部活動などに起点(の一つ)があるのではないか、という仮説が浮かびました。青春時代でもあり「平等」を盾にしがちな季節ですが、残念ながら「機会平等」ではなく「結果平等」を求めてしまう傾向があります。

(あえて告白すると、特に大学時代、僕は横並びを正としてきた側にいました。いわゆる20世紀の体育会の主将だったわけです)

”朝練には遅れてきてはならないし、無断欠席なんてもってのほか。プライベートは部活動以上には優先されない。部の飲み会は全員参加。礼儀がなっていないのはいくら競技力が高くても認められない”

というやつです。

聞く人が聞けば「あたりまえ」だし、逆に「気持ち悪い」と受けつけない人もいると思います。

中学や高校の部活でも、活発に活動しているところほどこの手の縛りがあって、夏休みなどは家族旅行や短期留学にいけなくて悩むひともいるかもしれません。

その習慣の延長が社会人になってからの「私だけ休暇をとって申し訳ありません」という気分であり、会社がわざわざ「休暇取得奨励期間」をもうけて盆や正月に集中して休暇を取らせるオペレーションにつながるのだと、思ったわけです。

で、かつて保守本流だった僕が今どうなっているかというと、結果的に考え方はかなりリベラルなものになっています。

”義理で縛られるのは大嫌い。納得いかないと誰の言うことであろうと全く体が動かない。納得いけばやりきる。その結果については、すべて自己責任”

なので、メンバーの自主性や独立性を同じように尊重しますし、自己責任を求めます。休暇をとるのは権利だし、事前に穴があかないように配慮さえすれば取得するのは問題ないという姿勢です。機会は平等にあるわけです。

このような考え方になったのは、もともとの性格もありますがキャリア形成期にいわゆる外資系とよばれる企業に所属し比較的自由な空気のなかで育ったからだと振り返って思います。

そんな僕でもいまだにやはり休暇を取得する時は気を使うわけですから、若い頃刷り込まれた習慣の影響というのは怖いです。

じゃあ、どうするか

これを是正するには...「合目的性」とか「目的合理性」といわれる視点が必要です。

これを常に持っていれば、一時の感情や衝動に影響を受けることなく筋が通せます。

ただし、中学や高校、大学の部活動にいきなりこれを持ち込むのはいささか現実的でない気がします。指導する側も準備ができていないでしょうし、いわゆる先輩や教師などの権力による「強制」以外の求心力をどのように働かせるかの代替策が無いように思えるからです。

あえていうと、企業の側から変わっていくのでしょうかね。常に目的合理性にもとづく運営や意思決定が行われるようなカルチャーを作っていくわけです。

もちろんその前提として組織のビジョンや各自のキャリアゴール・志といったものがあり、それが一致する人たちが集まって何かを企て業ている(企業)ことが必要ですけれど。目的が違うと論理は交わりませんからね。

企業が変われば、大学がかわり、その後高校や中学も変わっていくかもしれません。社会人は責任重大ですね!?

皆さんの所属組織はどうですか?