「公」と「私」、に加えて「個」 〜偶然得たひとりの時間からの連想〜

f:id:eitarokono:20150118131753j:plain

こんにちは。

ある意味充実していたワークオンリー時代

昨今、ワークライフバランスという言葉も多く聞かれます。仕事と私生活の両方を巧くバランスし相乗効果をだしましょう、という考え方と理解しています。

僕自身も会社に所属し、自分でも仕事をして、かつ家庭もあり。

どこまでが公の時間で、どこまでが私の時間かが分かりにくい働き方をしがちでもあり、このワークライフバランスについては、いつも頭を悩ませています。

もっと具体的に言うと、どの要素も中途半端に終わるのではないかという強迫観念があるわけです。

独身時代に会社勤めだけをしていた時は、すべてが自分だけで決められる時間でした。

24時間のうち起きている時間の全てを会社につぎ込む、という選択が可能だったわけです。

公私両面で集中・没頭する事が可能です。当然のことながら仕事の分量も想定した通りこなす事ができてあとは、品質向上に(=スキルアップ)に集中すれば成果に繋がる、という状態でした。

ある意味非常に充実していたし、贅沢な時代だったなー。

会社以外のワーク、そしてライフ

しかし、家族ができて生活するうちに、帰宅した時間は家族の時間であり自分一人では時間も内容も決められません。あえて言えば「家族との時間」を選択した、ということになります。

仕事に投じる時間もどうしても少なくなり、分量がこなせず品質を上げるために学習する時間もなかなか取りづらい、という悩みができます。

逆の観点で言うと、仕事に時間をとられ、十分に家族との時間が確保できないという悩みもできてくる訳です。

一方で独身でいた時に比べて、楽しい時間や喜びや、社会的意義や自分がいなくなったあとの世代のことを本気で心配するなど新しい視点ができてきたのも事実。明らかにトータルとしては充実しています。

最近はさらに、自分で始めた発信活動の時間も増えて、更にバランスが難しくなってきています。中には、所属組織のビジネスと、発信活動のビジネスの間でコンフリクトが起きて、「会社員の建前上その案件はお受けできません」というものも発生します。

さらにさらに、先日までアラフォー勤労学生でもあったので、客観的には「よくやるよ」という状態でした。

それそれの要素の間で時間や内容でコンフリクトが起きるのは、なかなかつらい瞬間です。実を言うと、ときどき「どれか一つに集中できればなあ」と思ってしまう事があるのですが「パラレルキャリア」「相乗効果」「独自性」を追求していきたいと思っているので旗はしばらくはおろしません。

それそれ高品質を目指して、とはいえ歯を食いしばってかみ振り乱して、ではなくできる事を淡々とやれればなあと思うようにしています。

週末の昼下がりに考えた

偶然、週末に家で久々にひとりになる数時間がありました。会社員でもなく作家でも、夫でも父親でもない瞬間でした。

「これって公?それとも私?」って考え始めて、だいぶ前に会社の先輩が「公と私、そして個」という分類をしていたのを思い出しました。

まさに個の時間。この貴重なパーツを、会社に使うか、私生活につかうか。それともまったく自分だけの時間に使うか。

贅沢な悩みだなあ、と感じた次第です。

その時は小説や新聞を読んだり、会社の仕事をしたり自分の仕事をしたり。なんか落ち着いた時間でした。

かつては気付かなかったなー、この価値に。沢山あったはずなのに。

「個」の時間。

皆さんはどうお考えになりますか。