チームで動く意味 〜あの人の想いを無駄にしない〜

こんにちは。

競泳という個人スポーツを長年やってきたせいか「自分はチームプレー向きじゃないのかも」と思う側面がありつつも、チームで仕事をすることが好きな自分をしばしば発見することがあります。

個人種目向き?チームプレーヤー?

競泳は個人スポーツのなかでも特に孤独で、一旦スタート音がなり入水すると完全に自分が周りと隔離されます。コース割りや角度によっては、競争相手も一切見えない、ということもあります。

そうするとよく言われるような「自分との戦い」という世界になります。100メートルの種目だと、90メートルあたりになると体も動かなくなるし、心拍数もあがり呼吸も荒くなり非常に苦しい。なかなかタッチ版は近づいてこないし...

「もう、いいか。自分だけの記録だし」

と思ってしまい、力を抜こうか、という誘惑に駆られます。でも、今まで目標タイムに向けて真剣に努力してきたので、ここで力を抜く訳には行かない。だから最後まで力は抜きません。

「ナカマ」

ここまでが「自分との戦い」の世界です。この葛藤は競泳の経験の無い方もご想像いただけるのではないかと思います。

ただ、個人スポーツのくせに不思議と「自分だけじゃない」って思うこともあるものなのです。

例えば、1チームにつき1種目あたり3人枠という制限があった場合。チームにはレースに出たくても出られなかった人がいます。その人の前で気を抜いた泳ぎはできません。「それだったら自分が出ればよかった」と思わせてはならない、という責任があります。

また、対校戦形式であればなおさらです。自分たちが上位大会に進出するためでもありますし、後輩たちのために次年度の上位大会のシード権を獲得するためでもあったりします。

そして、不思議なことに、個人種目よりもリレー種目の方が、引き継ぎのアドバンテージを考えても圧倒的に速いひとが多いものです。

プールサイドで応援してくれるチームメンバーの声は、スタート台に立って飛び込む前まではよく聞こえます。主審のホイッスルが鳴ったらスタート音までは館内は沈黙するルール(少なくとも20年まえは)なのでそれ以降はメンバーの応援は物理的には聞こえません。

でもですねぇ、チームの雰囲気がいいと聞こえるんですよ「魂の声」ってのが。実際に物理的な音波として自分の鼓膜をふるわせているかどうかはよくわかりませんが、そういうことってあります。

やっぱり皆で喜び合えるということには、特別の魅力があるんですよね。

残念ながら僕は今まで国を背負って泳いだことはありませんが、日本代表選手たちはそんな風に考えたりしてるんじゃないかな。

考えなくても出来る人たちかもしれないけど。

文筆業もチームプレー

いわゆる「作家」という仕事にもこの側面はあります。

個人の名前で仕事をしているようでも、出版社の皆さんがリスクを取ってくださっていて初めて成立する仕事です。

真剣に動いてくれる編集者の方々の想いを無駄にする訳にはいきません。夜中だろうが明け方だろうがなんとか歯を食いしばってやらないと。

もし、自分だけで完結していたら、もしくは完結していると勘違いしていたら、妥協してとっとと寝てるだろうな。

自分の名前が前面にでるだけになおさらです。いつも肝に銘じておかないと。

なんてことを考えた一週間でした。

皆さんはどう思われますか?