Bridges to the Better発足! 仲間も募集中〜

こんにちは。

実は最近、自分の会社の活動も少し活発化させつつあります。

”より良い”を追求してみる

以下のような会社を2年ほど前に立ち上げたのですが、その後サイトを作る際に改めて、自分が会社を通じて何を実現したいか、ということを考えてみました。

www.eight-arrows.comこんなことやりたいな、と考える中で思い浮かんだスローガンが

”Bridge to the Better”

です。

イノベーションは何かと何かがつながれば出来上がる、って思うこと多いのです。

例えば、業界をまたぐ。

例えば、世代をまたぐ。

例えば、コミュニティをまたぐ。

例えば、国境をまたぐ。

例えば、例えば、例えば。今までやってきた実績やこれからやっていきたいことを考えると、Bridgeとというキーワードが浮かんできました。

そして、それが良いことにつながれば。なので”Bridge to the Better”。

複数のNative English Speakersのチェックを受ける中で”Buildign Bridges to the Better”が韻を踏んでいていいな、ということになったので、会社のスローガンはこれにしました。

そして、ハッシュタグは#BB2B!

これを実現するには、コンセプトと仲間が欲しいと思って、まずは僕がお世話になっている人で、このコンセプトに同意してくれそうな4人の方々にお声掛けをしました。

青山フラワーマーケットでParkERsという事業を営む梅澤さん。

文化放送の長島さん。

IBMのぱちさん。

3(スリー)の吉崎さん。

いずれも、ご自身の仕事を持ちつつ、枠にとらわれない活動をされている人たちです。

年明けから諸々計画を開始して、飲み会などを経てまずはイベントを通じて世に問うてみて仲間を増やしていこう、ということになりました。

まずはやってみる。キックオフ!

多くの人たちのサポートを受け、4月12日にキックオフイベントを開くことができました。

イベントの様子は複数の皆様からのレポートがあるのでそのリンクをつけておきます。

まずは、ぱちさんの。

www.ibm.comあと、参加してくれた大学生のお二人のログ①

eitarokono-off.hatenadiary.jpそして、ログ②

eitarokono-off.hatenadiary.jp

ありがたいことです。

僕が冒頭コンセプトとしてお話ししたのは次のようなことでした。

シンプルに資料としてまとめておきましたので転載しますね。

 

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そして、次回は5月31日にデンマーク🇩🇰大使館後援(公式に取れたんです!)のイベント!

国を超えて活躍する人たちのお話を聞きつつ、日本社会のベンチマークとなりうる国について考えてみれたら、と思います。

是非多くの皆様のご参加を!詳細は追ってお知らせします。

お仲間募集〜!

 まだまだ、手探りだし、このてのことの運営ノウハウって僕の中になくって。いろんな人の力を借りて進めているわけですが、できましたら、さらに多くの皆様のお力を借りられたらな、って思います。

興味がある人は、運営側・参加側問わず連絡ください!

 

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「口癖」「書き癖」は行動様式に現れる

こんにちは。

スピリチュアル?科学的?

「言霊(ことだま)」っていう表現をご存知でしょうか。

辞書的には「言葉に内在する霊力。」だそうです。

一般的には「言葉にすると、それが現実化する」というような文脈で語られることが多いのではないか、と理解しています。

もちろん、スピリチュアルな観点では僕は語る資格はないのですが、意外にこの「ことだま」の影響って現実にも(科学的にも?)ありうるのではないかって思うのです。

どういうことかというと、自分の言葉を一番近くで聞いているのは、言葉が発せられる「口」からほんの数センチの距離にある自分の「耳」です。

書き言葉にしても、書いた途端に最初にその文字を読むのは自分の「目」です。

つまり日頃から発している言葉や、書いている言葉って何度も聞かされ、見せられていると、知らず知らずのうちに自分の行動に大きく影響しているのではないか、と思うわけです。

「とりあえず」ではなく「まず」と言う

これは著書にも書いたし、よくお話する内容なのですが、僕がキャリアの駆け出しの頃実際に経験した話です。

当時の僕は、優秀な若手でありたいと頑張っておりました。

実際に積極的に手を動かしたり発言したりしてたのですが、資料作成の方針の打ち合わせをして、そのあと作業分担に入る、という時に、

「わかりました。とりあえず、僕これとこれやります」

と分担を積極的に受けとった時のことです。

と、その時その場にいた先輩から意外な言葉が返ってきました。

「河野の仕事って、とりあえずのやっつけ仕事なのか?」

と。

自分の行動は積極的に前に出てチームに貢献するものだ、褒められこそすれ攻められるとは。若い僕としてはカチンときて

「そんなわけないですよ。じゃあ、なんていえばいいんですか?」

と返しました。と、その先輩は

「『とりあえず』じゃなくて、『まず』って言ってみろ。そしたら自然に『次に』って言葉が出てくるはずだ」

と言うのです。

当時は、生意気でしたが素直でもあったので、この瞬間「へーー」と納得してしまいました。

確かに。

一日のうち、なんども「とりあえず」「とりあえず」を連呼している人と、「まず」「次に」、「まず」「次に」を繰り返している人だと、長〜い間に大〜きな差がつくように思えたのです。

その視点で周りを観察してみると「とりあえず」「取り急ぎ」を連呼している人はどことなく「やっつけ」の行動が身についているように見えます。

「まず」「次に」、「まず」「次に」を繰り返していれば、自ずと行動は習慣化して、未来志向になるはずなんじゃないか、と。

データでの証明はできていないものの、単に「そんなのスピリチュアルなお話だ」、で片付けるほど瑣末なことでもない気がするのです。

とりあえず、そもそも、どうせ

そう考えると、ちょっとした言葉の口癖、書き癖も、実は行動に大きく影響しているのではないか、と思えてきません?

そしてまた、口癖、書き癖は、自分ではなかなか気がつかないものです。

以前、自分がラジオに出た時に後からその音源を聞き直した時に気がついたのが「おかげさまで」という言葉を多用していることでした。

その時、かつて書籍が売れた時に、絶対に有頂天にならないようにしようと決めて、その言葉を使い始めたことを思い出しました。

他にも、別の人が書いた原稿を読んだ時、この人「そもそも」が多いなあと感じたことがあります。

またある人は自分で「所詮XX、されどXX」と常に考えるようにしている、と仰っていましたがXXを過信はしないが、重視すると言う意味で使われていました。

そう考えると「どうせ」と言う自分を卑下する言葉や、「めんどくさい」「疲れた」「ムカつく」など、つい使ってしまいがちな言葉ってありますよね。

もし、このような言葉を使っていることに気がついたら、意図して未来志向の言葉に置き換えてみてはいかがでしょうか。

ちょっとしたことかもしれませんが長い間に、大きな違いが出てくるかもしれませんよ!

皆さんはどう思われますか?

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全てのビジネスパーソン向けの書『会社を変える分析の力』河本薫著

こんにちは。

今回も読後感です。

データ分析によって会社を変える

今から5年以上前の出版物ですが、以下のような本を読みました。 

会社を変える分析の力 (講談社現代新書)

会社を変える分析の力 (講談社現代新書)

 

ちなみに、アマゾンの書影ではわかりませんが、実物の帯はこんな感じ。

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日経情報ストラテジーから、データサイエンティスト・オブ・ザ・イヤーを贈られたようです。(多分著者の方が。)

著者は大阪ガス株式会社の情報通信部ビジネスアナリシスセンター所長の河本薫さん。

タイトルや帯の触れ込みからして、一見、いわゆる理系的な内容で、一般ビジネスパーソンには縁の無いような印象を受けるかもしれません。

しかし、実際に内容を読むと、一切そんなことはありません。

むしろ5年以上前の書籍とはいえ、今後を生きる全てのビジネスパーソンに必要な内容だ、と言うのが僕の読後感です。

「目的合理性」に立った分析

特に印象に残ったのは、こちらの図。

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 ビジネスにおいてでデータ分析は、なんのために行うのか、を冷静に根本的に考えると、ビジネス上の課題を数的根拠を用いて、解決するためです。

すなわちここでは、データを分析した結果や、分析のためのモデルが、組織のそれぞれの層で日々無数に行われる意思決定に貢献して、当初設定した課題の解決に活用されること、にあります。

これ、言われればあったりまえのことですが、なかなか実行できないのが現実です。

僕がいつも唱える、「目的合理性の担保」、「シンプルだけどイージーじゃないこと」の典型です。

簡単じゃないことの理由も著者はわかりやすく説明してくれます。

適切な意思決定のできる組織へ

冒頭の帯に描かれている絵にも出てきた「データの壁」「分析の壁」「KKDの壁」「費用対効果の壁」といったいくつかの壁が存在するのです。

実務の経験があれば、それらの壁はよく実感できます。分析する側や、それを活用する側ないしは意思決定する側それぞれが超えなければならない壁です。

これらも、全てただ漫然と読めば「ああ、その通りだね」と言う内容です。

ここでも重要なのは「そんなの分かってる」という評論家視点ではなく、「自分ごと化」とか「当事者意識」です。

この「壁」以外にも、

  • 「問題発見力」→「分析力」→「実行力」

といったデータ分析でビジネスを変えるために求められる力とか、分析力を向上させるための「4つの問い」、とか「分析者9カ条」など、著者が実務を通じて整理した実践的なノウハウや心がけが記載されています。

これがまた、わかりやすい。

もちろん「データ絶対主義」のようなスタンスをとってはいません。先に出てきた「KKDの壁」のKKDというのは、K(勘)とK(経験)と度胸(D)の略語なのですが、「壁」としつつも、KKDのもつ意義についても明言されています。

非常にバランスの取れた内容となっていると感じました。実際に分析作業をする人も、そうでない人も理解しておくべき内容がふんだんに盛り込まれています。

これらの考え方が「共通言語」になっている組織はいろんな場面で強さを発揮するんだろうなと思います。

新書版で200ページちょっとです。是非手にとって見ていただければ。

皆さんはどうお感じなるでしょうか?

他人と比べず、自分の基準を持つ(って難しいけど)

こんにちは。

同学年のスーパースター

よく、日常会話で世代や年齢の異なる人に向けて、自分はどの年代の人間であるか説明するときに、有名な人で例えること、ありますよね。

僕は1973年生まれです。

その時代に物心ついていたり、大人として活躍していた人に向けてなら「オイルショックの年です」とお伝えするのが一番わかりやすい。

あとは「僕の一歳の誕生日に、長嶋茂雄選手が『永久に不滅です』という引退スピーチをしました」とお伝えすると、おーなるほど、と言ってもらえます。

が、同年代や若い人たちにはその手は使えません。

若い世代でも、よく知る同年代の有名人・・・

となると、最もわかりやすかったのがプロ野球イチロー選手でした。誕生日は確か1週間くらいしかかわりません。

同い年なのに、二十台の若者に混じって走ったり跳んだり、打ったり投げたりしている人がいるというのは尊敬に値するし他人なのに誇らしい。なんかプラスのエネルギーをもらっていた感じがしました。

だから、先日の彼の現役引退は、僕ら1973年生まれの人は感慨深い思いを持って受け止めた人、多いと思います。

当然かく言う僕もその一人でして、引退試合や記者会見は見られるものは見ましたし、ネットで全文掲載してくれたので、改めて読んだりしました。

dot.asahi.com

人との比較ではなく、自分基準での評価

普段から、キャリアや働き方について考える生活をしているため、どうしてもその視点で見てしまうわけですが、イチロー選手の「生き方」について問われた時の、以下の答えが非常に印象深く残りました。

『人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。

 あくまで測りは自分の中にある。それで自分なりにその測りを使いながら、自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって。』

比較対象は自分の限界である、と言うわけです。

決して誰か他の人や、他の誰かが与えた何かではない、と。

なるほど。頭ではすぐに理解できます。すごくシンプルですので。

とは言うものの、じゃあイージーなことであるか、と言うと全然イージーではない。

我々は幼い頃からいろんなものと比べられて育ってきています。

「同級生の〇〇ちゃん」との比較から始まり、偏差値とかなんとかランキングの中で育ち、「学生らしさ」などの「らしさ」との比較が始まります。

そして「まっとうな社会人」とか「世間さまの目」、相対評価などとも。これだけ長い間色々なものと比較されると、その呪縛から逃れるのは簡単ではない。

一般的に「比較される」と言うことは、自然に自分も誰かを「比較評価しちゃっている」わけで、自他共にかなりのインパクトで我々の行動を制約していることは間違いないです。

僕自身も若い頃は結構、そういうことありました。その結果、焦ったりマイナスの嫉妬をしたり、なんだかわからないプレッシャーを勝手に感じてしまったり。

当時はまだSNSの広がりもなかったので、入ってくる情報も少なくて比較対象も少なくて済んだのですが、今の時代だったらさらに焦ってたのかなあ、なんて思います。

また、比較しなくなるというのは、常に良いことかというと必ずしもそうではないと思っています。

他人との比較が唯一のモチベーションの源泉だった人が、もし一切他人と比較しなくなったら、成長が止まるわけですからね。

イチロー選手の凄さはそこなわけです。

勝負の世界にいるにも関わらず、他の選手との比較ではなく、そして他の誰かが設定した何かとの比較ではなく、「自分の限界」というものとの比較をしているわけですから。

シンプルだけどイージーじゃない、ものすごい比較対象です。

それもかなり若い頃からその片鱗があったというのがさらに驚きです。

おそらく、自分の限界との勝負となると、周りからのノイズは聞こえにくくなるとは思うのですが、そこはあっちこっちから追いかけられるスーパースター。周りもほっとかないわけですから、プレッシャーは半端ないと思うんですけどね。

どんなメンタリティーの持ち主なのか、本当に興味があります。

僕も、この同学年のスーパースターの姿勢を見習って、誰かとの比較や世間の常識ではなく、自分自身で立てた目標にさらに近づいていけるといいなあ、と思う桜が咲き誇る年度末の静かな夜なのでした。

みなさんはどう思われますか?

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平成「体育会」考

こんにちは。

思うところあり、ちょっと古風な思索を巡らせてみました。

「体育会系」は悪か?

ここ数年、特に2018年はいわゆる「体育会」という概念、思考法、組織文化、行動様式がかなり評判が悪かったように思います。

少なくとも僕が目にした文脈では、思考停止の典型であったり、理不尽の象徴であったり。そんな描かれ方をしていました。

僕は、いわゆる体育会系学生、すなわち運動部の活動を生活の最優先事項として学生時代を過ごしました。伝統に関していえば国内ではダントツに長い水泳部の主将を務めた経験があります。

そんな僕自身の学生時代を含め、先のような批判を受けるに値するような思慮に欠く行動があったことも認めざるを得ません。(あくまでも、僕個人の問題かつ考え方です。)

また、当時の悪しき伝統や至らなさを次の世代の若い人たちが、知恵を使って改善していることもよく知っており、それに賛同し応援もしています。

この一見変節とも思える考え方の転換は、多分に社会に出てからいわゆる「体育会系」とは程遠い、むしろ対極の文化を持った組織(主に「ガイシ系」と呼ばれるエリア)でキャリアを築いてきて、嫌が応にも視野が広がったことにも起因していると思います。

社会に出た初めの頃は思考や行動のギャップに苦しみながら、色々考え、つどつど自分の中で整理してきたわけです。

そんな背景のもと、今回改めて、ちょっと考えてみました。

  • 昨今世の中で言われる「体育会系」というレッテルは本当に正しい見方なのか?
  • 「ガイシ系」経験を経た今の目から見て、全く参考にならない意味のない組織文化なのか?

そういう観点で考えると、そんなことはない、って思うんです。本来の体育会には理不尽さや思考停止などではない、もっと崇高な精神があったと信じています。

巷で体育会系と混同される”ブラック”組織は、本来の体育会の精神とは真逆の考え方だと思っています。

なので、ルールを違えることは許されないし、嫌がる人に何かを強制するのはやるべきでないということは前提です。

本来の「体育会魂」的なもの

体育会の圧倒的な意義として、三つほど重要なポイントをあげられます。理論として整理しているわけではないので、列挙になります。

いわゆる「体育会」で若い頃の多くの時間を過ごしてみて、こんな学びがありました。

  • チームの仲間は絶対に裏切りません。
    そんなの当たり前じゃないか、と言われるかもしれませんが、僕は社会人生活の中で、平気で人を裏切る人を見てきました。
    積極的、消極的どちらの意味でも人を裏切る人は多いものです。
    しかし本来の「体育会系」は、例え意見が違おうとも、同期はもちろん先輩であろうと後輩であろうと、チームのメンバーよりも他の人を優先することは絶対にありません。同じ釜の飯を食った人は守り通すと言うのが体育会のオキテ(笑)ですので、体育会の人は絶対に裏切りません。
    もちろん切らなきゃいけない時はあります。ただし「裏」切るのではなく、正面から切り掛かります。
    同時に、裏切った者は「基本的には」許さないし、「ずるい」とか「卑怯」な行動は最も信念に反する行動ですので、誤魔化したり謀略的に動いたりするなどの行為、これについては怒りとともに心底嫌悪します。

 

  • 一つのことを深く究めようとします。
    学生時代のほぼ全ての期間にわたり、ある競技に打ち込むわけです。食事、睡眠、栄養、思考全てがそれぞれの目的を達成するために研究し尽くされます。文字通り「四六時中」「寝ても覚めても」そればっかり考えるクセがついています。
    社会に出て、寝ても覚めてもある一つのことを突き詰める人材が不要なはずもなく。
    物事を極めるために既存の枠を外れ、海を渡ったり、法律を改正したり、事業を始めたりする人も多いです。
    巷に誤解のある、ゲタを履かせてもらって入社した企業に定年までぶら下がる、というのは体育会精神に反します。

 

  • 社会の役に立つことを旨としてます。
    これは、解説が必要だと思います。
    体育会の学生は、学生時代から何十年も上の大先輩と交わる機会が何かと多いです。時に杯を酌み交わし、時に(不謹慎かもしれないですが)その方とのお別れも経験し、活きた歴史を知り社会を知るわけです。
    また、校歌や応援歌、部歌や寮歌などを耳にしたり自分で口にする機会が圧倒的に多くなります。そうすると自然と建学の精神や、会うこともなかった大先輩の熱い想いに触れることになります。そういう力のあるコトバに接すると、自然に考えますわな。どういう想いでこの詩や曲を作ったのか、って。
    大抵は国や社会、世界のあり方をより良くしようとして教育機関を作るわけです。並大抵のエネルギーであるはずもなく、そういうエネルギーに接すれば、当たり前のようにあるべき社会の姿や、それに対する自分の姿勢を考えるようになるわけです。

ご覧になって分かるように、「まっすぐ」とか「紳士」「武士道」と言った言葉が当てはまりがちな人を生産する集団なわけです。

当然です。「そうあれかし」と育てられていますので。

これが、尊敬する代々の先輩から僕が受け継いだ、一般用語でいう「体育会魂」です。

平成の次の「体育会系」

ただ実は冷静に考えると弱点もあって、いわゆる体育会集団は、かつてのようなモノカルチャーの時代は力を発揮してきましたが、現代の環境に十分に適応しているかというとそうではない側面も多いです。

端的に言えば、「オキテだろ!」って言っても日本人以外の人は「は?」と思うでしょう。「裏切る」の定義も、文化によって全然違うでしょう。

平成の次の時代を生きる、新しい世代の「体育会系」の人たちは、受け継いだものの上に、少し知恵を加えた考え方を身につけて行かなければならないのが現実です。

ま、体育会系の弱点≒自分の弱点でもあるわけで、その辺りを改良していかなければなあ、と僕自身考えることがここ数年増えているってことなんですけどね。

著作などを通じた発信活動・社会への提案活動の原点には、このような背景もあるんです。

皆さんは、どう考えるでしょうか?

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どっちだ⁈「今の1分は明日の1時間、来週の半日」と「明日できることは今日やらない」の見極め

こんにちは。

最近出した新刊の反応をいただくようになりました。

今すぐ対応すれば短時間で済む

いくつかの反応のうち、「今の1分は明日の1時間、来週の半日」という項への賛意がありました。

この項の意図としては、何かやらなければならない時。特にトラブル発生などが顕著ですが、

「あー、なんかちょっと疲れたなぁ」

とか

「苦情対応するのやだなあ」

などと思ってしまい、少し寝かせてしまうことがあります。

これって、実は生産性の観点でいうとかなり効率が悪い、ということを言っています。

すなわち、

今すぐに対応すれば1分で済むことなのに、その日の夕方まで放置すれば2−30分の作業になり、翌日まで放置すると1時間、翌週まで放置すれば半日、下手をすると終日かかって収拾するほどの作業量になる傾向があるのです。

これは、完全な経験値ですが、賛意が多いということろから見ても同じような経験をする人も多いのでしょう。

過労から体や心を守るのは自分

一方で、僕が新卒で入った会社で、新入社員研修の時に講師に立ってくれた現場で活躍する先輩が、質疑応答の中でおっしゃっていたことを思い出します。

「働き過ぎに注意。自分は『明日できることは今日やらない』と決めて日々を過ごしている。」

というのがその方のコメントでした。

今では名前もポジションも忘れてしまいましたが、ハードな仕事で有名な部署の方だったので、おっしゃっていた内容を鮮明に記憶しています。

そしてそれ以降、自分自身に言い聞かせるようにしています。

頑張りすぎて、体や心を壊してしまうなんて本末転倒ですからね。

そんなポリシーを持ちながら今までのキャリアを過ごす中で、いつも自分ながら一瞬混乱するのは、「明日できることは今日やらない」と自分に言い聞かせながらも、「今の1分は明日の1時間、来週の半日」つまり今すぐやらなきゃ、という考え方も併せ持っている点です。

どっちなんでしょうかね。

キーワードは「計画」

今のところのこのトレードオフに対する僕の回答は「計画化してあるか否か」です。

なーんだ、そんなことか、という声が聞こえてきそうですが。

ま、当たり前ですよね。

「Aの部分は明日やる、Bは明後日。そしてC以降は来週」といった計画さえあれば、今日やるか明日やるかなんて迷う必要もありません。明日に先延ばしすることで1分が1時間に膨れ上がることもないわけです。

一方、突発的な出来事対応や予定外の割り込み仕事は、当たり前のように計画化されていませんので、まずは手をつけてみる必要があるわけです。

もしかしたら、先の新卒研修の時の講師もそれが言いたかったのではないかな、なんて今は思います。

重要なのは、その手の突発的な出来事があることを見越して、スケジュールをギュウギュウに詰め込みすぎないことですね。

ほんの少しでもいいので余裕を持たせて、計画外対応の時間という「計画」をしておくのです。

僕自身も1日のうち1時間はそのような計画外対応時間を見込んでいますし、木曜日(これは決めの問題)には年間を通してギリギリまで予定は入れないようなバッファの時間を確保しています。

このバッファ時間があることによって、なんだかんだではみ出した時間を、直前にここに吸収することができるからです。何もなければ考える時間に当てればいい。

曜日を決めて調整時間を作るのは高校生時代からやってました。

「明日やるか」「今すぐやるか」の分岐は「計画化してあるか否か」というお話でした。

みなさんはどう考えますか?

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超訳モンテーニュ 中庸の教え

こんにちは。

慌ただしくも、充実した1週間

今週は、レポート採点とか書籍の発売とか、その他諸々なんだかんだで仕事のハイライトが続きました。

その分非常に充実した時間を過ごすことができたわけですが、ランチも毎日のようにいろんな人たちとご一緒しました。

ランチはいいですね。長くなりすぎず、お酒も入らないので、記憶・体力・時間・おサイフ面それぞれで効率的です。(お酒が入った夜の宴も大好きですが!)

で、ある日のランチは、『超訳 モンテーニュ 中庸の教え』の著者(訳者?)の大竹さんとご一緒しました。

 良いタイミングなので、今日はこの書籍の読後感を。

どんな人が書いたか?

原著は、エセーまたは随想録として世界史の教科書に載っているのでキーワードとしては多くの人が聞いたことがあるとは思います。

16世紀後半にフランスで出版された、タイトルが表す通りのいわゆる随筆です。

エセー - Wikipedia

この原著を書いた人は、ミシェル・ド・モンテーニュという人で、ミシェル・ド・モンテーニュというところの人です。名前と居住地名が同じ、ってところからもわかるように、地元の名士だったとのこと。

もう少し言えば、地方自治の首長に相当する方だったようです。当時のヨーロッパは宗教的にも荒れた時代だったのですが、彼はバランス感覚に優れた政治家だったようです。

そんな彼が最前線から少し引いた時に城館にこもって書き残したものということです。

なんとあのパスカルや、ラ・ロシュフコーデカルト、さらにはニーチェなど名だたる哲学者も尊敬している人だと。

フランスのミッテラン大統領の公式肖像の手に持たれたのもこの随想録だそうです。リンク的には多分これ。

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内容は多岐にわたり、日本語版は岩波文庫だと確か6冊の大部です。

学生時代は文学部だったので、この書籍を扱った講義を取った記憶がありますが、四半世紀の時が経ってしまっていて、正直講義内容は記憶がありません・・・

モンテーニュは日本で言えば誰だろう?というお話を、著者の大竹さんとしたのですが、僕にとって「バランス感覚に優れた政治家」というのは後藤田正晴さんのイメージが強いので、僕は勝手にそのようにイメージしてみました。

後藤田さんがもしこのようなエッセーを書かれたら同じように多くの人に読まれたのではないだろうか、なんて妄想も。

そして、もう一方の著者、翻訳をした大竹稽(けい)さんは、愛知県出身の僕と同世代の方。

以前、とあるパーティで初めてお会いしてお話しする機会をいただきました。

愛知県名古屋市の名門、旭丘高校から東京大学理科三類(そう、あの理Ⅲです)に入学され・・・たのに退学して、色々あって同じく東大の哲学研究科で改めて学びなおされた、という異色の経歴の方です。

プロフィール | 大竹稽 オフィシャルサイト

子供の教育にもかなり尽力されているため、作文教室などでもお世話になった保護者の方も多いかと思います。

どんな内容か

書籍自体の内容的には、当然読んでいただくのが良いのですが、僕が読み取ったモンテーニュのメッセージとしては、

頑張る必要もないがサボることを進めるわけでもなく、名声は求めるものではなく、とは言え、物事に真摯に向かうことで後からついてくるもんなんだ

というようなトーンでした。

つい、功名心とか自己顕示欲、外発動機に左右されがちな僕に取っては、「まあ、待てよ。そんなに焦って、どうするの?」と450年近い時代を経た人から言われているような気がする内容ばかりでした。

まさに「中庸の教え」。

同じようなことで悩んでいる人がいれば、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。

そして、この本の最も特筆すべきところは、大竹さんによる現代人にも分かりやすい翻訳(超訳)です。

現代日本人である我々にとってこの随想録自体は「450年前の」「フランスの」「難しい」本という印象は拭えません。実際に岩波の書籍もそれほど読みやすい文体ではないというのが僕の感覚です。しかし、大竹さんはまるで、モンテーニュが現代の人で、それも日常会話に近いような親近感あふれる語り口で話しているような表現に作り変えてくださっています。

 僕も以前、福澤諭吉の「学問のすすめ」を中学生にもわかるような表現で翻訳をしたことがあります。

本来、もっと身近な書物が、その翻訳が難しいために一部のインテリ層だけのものになってしまっている、という問題意識が共通しています。

まるで、中世ヨーロッパで聖書を中心とする書物が全てラテン語で書かれてしまい、一部の読書階級だけのものになってしまっていたのとよく似ています。

それを、なんとかしたいね、という考えで認識が一致したのは非常に印象深いです。

この「超訳 モンテーニュ 中庸の教え」が、モンテーニュへの扉を開き、原書なり、全訳なりへの橋渡しになれば良い、と。

僕も同じ考えです。「学問のすゝめ」はもっと多くの日本人に読まれるべきであり、そのための橋渡しに「現代語訳 学問のすすめ」がなっていけるといいなあ、と思うのです。

超訳 モンテーニュ 中庸の教え」改めて、オススメの一冊です。ぜひどうぞ。

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