名付けて「派生読み」

こんにちは。

「放談会」開催。その中での派生読み紹介

先週実は、お世話になっている藤野貴教さんと一緒に”放談会”なるものを開催しました。

peatix.com

自分の興味についてそれぞれが話するということで、共通のテーマは東洋(思想)でした。

僕は主に以前現代語訳をした「学問のすすめ」についてポイントを置いてお話ししたのですが、そこに至る過程で読書体験の話をしました。

そのときにご紹介したのが、「派生読み」というやつです。

これは、僕が勝手に命名した本の読み方だし、実は誰でもやっているのかもしれません。

どういう読み方かというと、本を読む中でそこに出てきた人や物語、時代や地域や作家などをキーワードに次に読む本を決めていく、というものです。

もともと興味のあるエリアで本を手に取っているわけですから、そこに関連することは多くが興味があること。どんどん広がりますし、とあるテーマに色んな角度から切り込むことが出来ます。

多くの知識や情報を得ることも可能で、自分がその後生きて行く上での考え方の軸だったり、知恵だったりに昇華させることも可能です。

「派生読み」歴の例

実際にご紹介した派生読み歴ですが大きく3つの時期をテーマにしました。

①2002年から2005年ころ

②2008年前後

③今

それぞれの時期と自分のキャリアとかライフステージとは、当然重なります。

①の、2002年から2005年ころは、アクセンチュアから離れ、ベンチャーに行って失敗し、キャリア的にボロボロになってからPwC入社と、IBMによる買収、IBMへの”定着化”というかなり激動な時期でした。いろいろな道を探していたじきでもあります。

②の時期はIBMでも、幾つか仕事の成果が出始めてきて、面白くて仕方が無く、次の飛躍を考えていた時でした。ロンドンに数ヶ月駐在していた時期でもあります。

③の今は、見える範囲がドンドン広がってきて視野を改めて広げたいと思っているじきです。

で、①の頃は、出発点はこの本でした。手に取った背景は、もともと塩野七生さんの本を幾つか読んでいて、いつかはこれを!と思っていた矢先に文庫本の刊行が始まったことがキッカケです。

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)

そして、ここから「派生」が始まります。

ガリア戦記 (岩波文庫 青407-1)  自省録 (岩波文庫)  ジュリアス・シーザー (新潮文庫)  背教者ユリアヌス(一) (中公文庫)

これらは出てきた登場人物が実際に書いた作品であったり、その人を扱った著作であったりします。

作者である塩野七生さんが、書籍の中でコメントしていた作品でもあります。

 そして、塩野さんの他の作品にもさらに興味が広がりました。

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 (新潮文庫)  わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡〈1〉 (新潮文庫)  

マキアヴェッリが出てきたため、君主論も手に取りました。

これが高じて、後にフィレンツェに家族旅行に行くことになります。

加えてマキアヴェリズムでしらべていたら、なんとIBMのもとCEOのガースナーが出てきたりしました。

さらにいえば、ローマ帝国IBMはその、変遷の仕方(ローマ:王制➡共和制➡帝政、IBM:機械製造➡コンピュータ製造➡システム・サービス➡人工知能)や個の力ではなくシステムでの組織維持の方法論などが共通します。なのでこんな本もこの時期手に取りました。

巨象も踊る

そして、②の2008年前後。リーマンショックの頃でもあり、グーグルが台頭し始めた時代でもありました。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)  ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書) フューチャリスト宣言 (ちくま新書)  

梅田望夫さんの発信する情報に、将来への希望を持った気がしました。同じ作家の本を深める中で、斎藤孝さんとの対話本に出会い、その中で福澤諭吉の偉大さを知りました。

 私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

そして、そこから斎藤さんが訳した「学問のすすめ」に出会い、凄い衝撃を受けました。

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめは、あまりに有名ですが、その実あまり通読されていない本の典型だと思います。それを現代語訳で読んだとき、現代の仕事に通じるなあ、と心の底から思いました。

さらに言えば、ビジネスパーソン向けにもっと分かりやすくできるな、と感じました。自分だったらこう訳すだろうな、とそのときに思ったのが後の「現代語訳 学問のすすめ」の出版につながります。

そして、③の今の興味の範囲は、主に中国です。

これは単純に、夏の家族旅行で中国の四川省成都に行くことに決めたときから、予習代わりに三国志のマンガ版を読み始めたのがキッカケです。

三国志全30巻箱入 (潮漫画文庫)

2万円で全巻セットを買い、一気に読みました。そして現地に行ったらやっぱり圧倒されたと同時に、隣国にもかかわらず何も知らない自分に気付きました。

なので、片っ端から伝記や小説を読み始めているところです。

マオ―誰も知らなかった毛沢東 上    蒼穹の昴(1) (講談社文庫) 張学良秘史 六人の女傑と革命、そして愛 (角川ソフィア文庫)  キングダム コミック 1-51巻セット

これなんか、どこに行き着くか分からないけれど、興味はいや増すばかり。次から次へと読みたい本がたまって行きますね。うーん、時間が足りない(笑)

 

本を読むってすばらしい。それを振り返ってみるのも楽しかったです。

今回図らずもキッカケをくださった藤野さんには感謝ですね。また何か仕掛けて行きたいです。

皆さんも一度いかがですか、読書体験を振り返ってみるのは?

 

 

 

 

 

 

 

アレクサ・ルンバ・ひと昔

こんにちは。

今日は偶然ですが僕の45回目の誕生日でして。多くの皆様からメッセージいただき、感激しております。ありがとうございました。

45年間ってどれくらい?

なんとなく、45年という年月ってどんな長さなんだろう?って考えてました。

日本の歴史 - Wikipedia

なので日本の歴史を眺めながら45年という定規を少しずつ移動させてみました。

安土桃山時代って30年程度なんですね。45年というとほぼ明治時代と一致します。

45年あれば、東洋の鎖国していた小さな国を、清国やロシアと喧嘩して勝っちゃうような近代国家にすることもできるわけだ。

と、考えるとだいぶ長い時間なんだなー。

そんな長い間人間やってるのに、自分は何ができたんだろうって思ったりもします。同時に生涯現役なので、まだまだ同じだけ時間がある、という感覚もあります。それも大人としての時間。

色々、やれるかも。なんて思いました。

これを書きがなら後ろでは某スマートスピーカーがラジオを再生してくれてます。聞こえにくければ、声をかければボリュームをあげてくれます。

同時にロボット掃除機が勝手にグルグル掃除をしてくれたりします。

45年前はラジオは専用機があって、ツマミでチューニングしてました。掃除機はとんでもなくでかい音だったのを覚えてます。

当時でも便利な世の中になった、と言っていたと思いますが、その当時と比べても現代は隔世の感がありますね。

まだまだ、たった45年ともいう

一方で、父に買ってもらったCDとアンプ、スピーカーのセットは30年経ってもいい音出してます。

足元を見れば25年以上履いている靴がまだ現役です。(写真ご参照)

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手元には50年以上は経っているだろう祖父の形見の時計。こっちもちゃんと動いてます。

自分の肉体も、それなりに古くなっています。

健康診断(というか人間ドックですが)結果をもらっても、昔は何も書いてないのでスルーしてたのですが、最近は結構色々書いてあるリッチな(笑)レポートが返ってき始めました。まあ、読むのが大変。

今では、読むのが大変を通り越して、字が細かくて読めなくなっている、という…

そんな肉体ではありますが、知恵や経験値、度胸や落ち着きとかはついてきてますね。(若い頃欲しかったものです。)

一応生涯現役を目指していますし、家系は長生きなので、まだまだ折り返し地点までは来ていません。

後半生に活用できるような、知恵や経験、度胸などを積み重ねていきたいと思います。

こんな僕ですが、引き続きよろしくお願いいたします。

河野英太郎

鶏口となるも牛後となるなかれ

こんにちは。

最近は、誰かが昇進するタイミングでプロフィールが変更されると、Sansanのエイトとか、LinkedInなんかで、一斉にお知らせが来ます。

おめでとうメッセージへの謙遜か?

大変おめでたいことなので、おめでとう!ってメッセージを送ることがあります。

仕事の幅がひろがるというのは、多くは人格的にも成長するし、よいことがおおいですよね。

そんなときの反応として、

「いやいや、しょせんウチの規模なので」

とか

「まだまだ零細企業なので」

というものが、ときどきあります。

原因の一つとして、僕がIBMというでかい組織にいることが原因なのかもしれません。

また、ご本人はそんなことは実際には思っておられないのかもしれません。

僕はと言えば、やはり(現時点で)規模的には小さくとも一国一城の主は尊敬の対象です。

全体を自分の意志でコントロールして、全責任を負うというのは、規模の大小を問わずとてつもないプレッシャーとともにやりがいもあるんだろうな、と想像します。

実際、一国一城の主であるかたの、行動や顔つき、発言内容などの迫力も違ってみえることが多いかな、というのが僕の今までの感覚です。

実際、あるヘッドハンターの方に以前お話を伺った際には、大きな組織の事業部長と、小さな会社の代表取締役の案件があると、圧倒的に後者の方が人気があるといいます。例え前者が報酬面で圧倒であったとしても、だそうです。

鶏口となるとも、牛後となることなかれ

これって、高校時代に(中学だったかな?)漢文の授業で習った「鶏口牛後」という故事成語そのままですね。

manapedia.jpこれを机の上で習ったときは「そんなもんかな」という感覚でした。

が、実社会に出て、多くの人と接点を持ち視点をやしなってくると、これを実感として持てることが増えてきました。

もちろん向き不向きや好き嫌い、本人の優先順位など他の要素があるので、一概に誰にでも当てはまることではないのでしょう。

しかし、一つの考え方として「トップはどこに行ってもトップである」ということではないかな、と。

だったら、自分の居場所を選ぶとき、大きなブランドに身を置きそのステージを使い倒す、という選択肢の他に、ブランドは無いものの、十分な裁量を与えられた中で遣りたいようにやってみる、というのもアリなのではないでしょうか。

ときどき発生する冒頭のような出来事を通じて、こんなことを感じるのです。

みなさんはどう思われますか?

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菊池病発病から1年経って 〜ネットで情報開示することの意義の一つを知る〜

こんにちは。

菊池病発病1周年

実はちょど1年前、菊池病という珍しい病気を発病しました。

その記録は添付の過去ブログに記録を残しています。

eitarokono.hatenablog.com

基本的に治療法はないものの必ず治る、と言われた病気ですが、今まで経験したことのない高熱で2週間寝込みました。

実はこの時いろんなことを考えたし、その後の行動や思考パターンにも影響があったため自分にとってはかなり象徴的なイベントでした。

例えば、

  • それまで自分はほとんど鉄人じゃないか、と勘違いしていましたが無理は効かないのだということが自覚されました。
  • ストレスは溜めすぎてはいけない、ということが頭ではわかっていましたが身にしみました。
  • 自分がいなくても仕事は進むのだ、ということがわかりました。
  • 体力づくりを真剣にやろう、と考え直しました。
  • もうこれ以上、無駄なことはやってる暇はないことが、わかりました。

みたいなことを考えました。

そしてあれから1年。

あの時、立てた目標として、腕立て伏せとスクワットを100回ずつやる、というものが一年間ほぼ維持できました。

正確にいうと病後の10月にはそれぞれ10回からはじめました。

それだけでも大変だった記憶があります。そして月に10回ずつ増やしていき100回まで増やしました。

少しずつ継続することの楽しさや意義を強く感じました。

ついでに言えば、病気をする前よりだいぶ若返った感じはしますし、水泳のタイムも上がってきたので、そういう意味では雨降って地固まる、と言ったところでしょうか。

「病気体験」の情報発信の意義を知る

で、ここからが本題ですが。

一年前に書いた冒頭のブログですが、自分の予想を超えて多くの人に読んでいただきました。

当初アクセス数は跳ね上がりましたが、今でもGoogle等の検索サイトからの流入も多いです。

また、定期的に書き込みやご連絡をいただきました。

どんな方から連絡をいただいたかというと、僕と同じようにこの菊池病で苦しんでいる方々からです。

再発率は4%ということですが、僕は幸い1年経って今のところ発病の気配はありません。

しかし中には何度も発病されている方や、何ヶ月もお子様が苦しんでおられて良い病院を探している方からも連絡いただきました。

ブログを書いた当時は、ずいぶん苦しんだので自分のための備忘録程度のつもりで残したものだったのですが、同じような病気にかかって苦しんだり不安に思ったりする方への情報提供という形で、自分が当初思いもしなかった貢献ができたのは新しい収穫でした。

本来であれば四半期の振り返りをアップするタイミングでしたが、少しばかり自分にとって特別なタイミングでしたので、こんなことを考えてみた次第です。

プライバシーの問題や、深刻度によっても考え方は色々あるかもしれませんが、病気などの経験談って公開してみるものかもしれませんよ。

困っている人に対して有益な情報役に立つんだな、って思ったので。

皆さんはどうお考えになりますか?

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意思決定はデータに基づくべきか現地に足を運ぶべきか。 〜ま、両方なんでしょうけど。

こんにちは。

レポートだけで重大意思決定!?

今から10年以上前のあるとき、僕が所属していた部門のグローバルのリーダーのそばで短期間、鞄持ちしていたことがあります。

その人はアメリカ人でしたが、居住地・勤務地はロンドンでした。

いろいろ話を聞いたのですが、グローバルでとある外部のソフトウェア会社と大々的に提携する、というテーマについて話していた時のことです。

そもそも「あまたあるソフトウェアのなかで、なぜその会社のものを採用したのか。導入実績でもあるのか?」という質問をしたときのことです。

「無い。ガートナーやIDCなどのレポートを参考に判断した」

という回答が返ってきました。

(当時それほど有名ではなかったその会社は、実際にその後順調にビジネスを伸ばし、今では重要な提携先となっています。)

そのときのやりとりを通じて、僕が持った感想として、二つ。

①全世界を巻き込む意思決定を、実物も見ないで、そんな気軽に決めていいのか?

という疑問と、

②(とはいえ)なるほど。だから意思決定が早いのか。

という納得感でした。

現地現物・5ゲン主義

確かに、ガートナーやIDCなどのプロの調査分析屋さんと、自前の調査分析だったら、どっちが品質が高いのだろうか?と考えた場合、前者な気がします。

一方、日本では「現地・現物」とか「5ゲン(現場・現物・現実・原理・原則)主義」という言葉を聞きます。

又聞きや机上の空論は、安易に信じることなく、実際に目にしたことをのみ信頼して判断せよ、という意味だと解釈しています。

調べてみると、もともとは「3現主義」だったのが機能しなくなったのか、「原理」と「原則」を足して、「現」と「原」は字が違うのでカタカナの「ゲン」にしたようです。

製造業の現場ってやっぱり生産の現場なんでしょうね。流通や小売りだったら売り場なんだろうか。

そこから上がってくるデータだけをたよりに判断するな、実際に足を運んで現場に行き、現物に触れてみてよく考えよ、という教訓です。

なるほど。

現地とデータの棲み分け

では、昨今のデータ活用のムーブメントとの整合性はどのように、説明するのだろうか。

また、冒頭の例のような、会社や製品との提携先の選抜をするときって、どこが現地や現場なんだろうか。

なんて疑問が沸いてきました。

加えて、「現地・現物」とか「5ゲン」と言っているから、日本の組織は意思決定に時間がかかるんじゃないだろうか、という仮説までわき上がってきました。

日本の組織において、データはあくまでも参考にする程度。そういわれてみれば経営学などでよく使われるフレームワークも、理解して参考にする程度。

「データでは若手の離職率が高く、エンゲージメントが下がっているから、若手と会わせろ」という会社トップ層の依頼にもとづき、担当部門が現場の優等生ばかりをあつめた「役員とのラウンドテーブル」を通じて、「なんだ、みんな元気じゃないか。やっぱりデータは間違っていた」なんて言い出す始末。

ひどい場合には「日本人は5段階のスケール調査の場合、3を選ぶため数値が低く出る傾向がある」と低い数値に対して説明をつけたりします。

実際の意思決定は最終的には、ほとんどが感覚で決められることが多いのではないでしょうか。(これも感覚ですが!)

データに基づく意思決定というのは、”非現場”、”非現実”のイメージがつきまとうのでしょうかね。

で、当時の僕の整理としては、

『工場や売り場・プロジェクト現場といった「現場」が明確な時は机上の空論を排し、現場に足を運ぶ』

一方、

『「現場」が不明確とか、現実的に足を運べないような場所・範囲であるならば、右往左往していないで、早いところデータに基づく意思決定をしてしまった方が、何も決めないよりは100万倍良い』

という感じでした。

もちろん実際には程度問題で、一定のデータと、一定の現場感を総合して意思決定して行くのが現実ではあると思いますが。

これからも意思決定を迫られた時に、どこを探してもいつまで待っても「現地」が不明確であれば、データのみで判断し、スピードを優先していきたいと思った次第です。

皆さんはどう思われますか?

 

 

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「アスリートファースト」とか「プレイヤーファースト」からの連想

こんにちは。

”技術者ファースト”

実は僕は技術者とか研究者と呼ばれるヒトたちを尊敬しています。

なんでかって言うと、大きく二つくらいあって

まずは、

①自分にできないことをできる人をシンプルに尊敬する気持ち

が圧倒的に強いです。

あと、ステレオタイプですが一般的に僕の周りの人たちは、

②技術を追求する真摯な人柄であることが多いから

という、プリミティブな感覚があります。

(あと、もしかしたら祖父が薬剤師で薬学の博士だったので、近所にあった薬科大学の研究室に幼い頃によく連れて行ってもらっていたこともあるかもしれません。)

上記の二つの特徴はアーティストとか職人とか、アスリートにも当てはまるかもしれませんね。

ですので、そういう人たちと一緒に仕事をすることは日々刺激になるし、すごく楽しいです。

尊敬できる技術者のヒト達がたくさんいるIBMという組織は、それだけで所属する意義がある場所です。

ちなみに、今回の添付写真はご近所さんを中心とするIBMの技術者のトップクラス(文字通りホントにトップクラス)の人たちとの会食時の写真です。

実際に現場で仕事しているときも、教えを請えばイヤな顔一つせず教えてくれますし、こんな面倒な作業どう考えても自分やイヤだ、と思うような作業でも(当該領域であれば)むしろ喜んでやってくれます。

日常的に尊敬、感謝、感動の連続だったりします。

なにしろ、IBMはその高度な技術で成り立っている会社ですからねー。

ビジネスとは本来両立するはず

一方で、ビジネスをやっていると、数字のプレッシャーが高くなると、つい技術者を大切にする余裕がなくなってくるリスクがあります。

もちろん、数字を上げてくるヒトもリスペクトされるべき存在ですが、度が過ぎるとつい「ウチは営業の会社」なんて言い出したりして「オレがオレが」になりがちなのが弱点です。

そうすると、つい技術者ファーストの精神の優先順位が下がってしまい、誠実な技術者ほどガマンできなくなってモチベーションをおとしたり、流出したりすることになりかねません。

結果、高い技術力を反映した製品・サービスが減って売るのも大変になるんですけどね。

なんか、これってスポーツのプレイヤーと事務方の関係や、エンターテイメントのタレントとマネジメントの関係に似てたりしないかなって想像します。

本来サポーターの立場である者は前に出過ぎてはいけないのかもしれない、と(自分の行動をふりかえりながら)思います。

技術者をリスペクトして、その人たちが働きやすい環境をや本業に集中できるような環境を、創る活動にマネジメントが集中すると、良い循環ができあがるんじゃないかな、って思います。

 皆さんはどうおもいますか?

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自分に対して期待する。 〜他人に期待するからストレスになる〜

こんにちは。

他人に期待しなければストレスは無い!?

以前「ストレスを感じないために、経験者がやっていること」という内容のタイトルでライフハック系の情報が目に入ったことがありました。

ほう。

メンタルのコツについて書籍を出している者としてはスルーできないタイトルです。

中を見たところ、分かりやすくワンメッセージで、

「他人に期待しないこと」

であると。

なるほど。

確かに、他人に対して色んなレベルで期待をするから「◯◯さんが、動いてくれない」とか、「××さんが、こんな余計なことをした」という、ありがちなストレスが発生するわけです。

実務の中でも大いに当てはまる節があります。

ですので、自分が希望したとおりに、周りに動いてもらおうとしないことはストレスを軽減することはできますよね。

「期待」こそ進歩の源泉

でも、待てよ。

「じゃあ、チームや会社を率いる立場の人は、チームメンバーや社員に期待しないのか。期待こそがビジョンであり、チーム目標じゃないのか。」

という考えがアタマに浮かんだのです。

期待しなければヒトやチームは成長しようとしないですもんね。

このあたり、どうなんでしょうね?

リーダーや社長というのはストレスがたまるもの、という諦観に似た考え方も一つありますね。

同時に、リーダーや社長というのはメンタルのマネジメントがうまいのだ、という考え方もあります。

過度に期待しすぎず、とはいえ期待する。というバランスをとるわけだ。

白か黒かのどちらかではなく、白でも黒でもないその間の適切なポイント、というのが世の中の現実ですからね。

自分に期待する。

じゃあ、あんたはどうマネージしているのか、と聞かれたら。。。

自分がストレスを感じるときを振り返ってみると、ヒトがぜんぜん動いてくれないなと思う時にももちろんストレスを感じますが、同じように自分が想定したパフォーマンスを出せてない時の方がストレスを感じていることに気がつきます。

ですので、常に反省し何か改善策を考えています。

考え方としては、ヒトが動いてくれないのは、自分のコミュニケーション(行動)に改善の余地がある(あった)からだという形の思考回路なんだと思います。

単純に他責にすると、うまくいってない原因とおもわれる誰かをターゲットにするわけだから、かなり腹が立ってきます。

「憤懣やる方無く」と言うようにストレスがたまって体に偏重を来す傾向があります。(気が弱いので、他人に当たる、ということができないので。。。)

大人になってしばらく時間が経っているので、自分のこのような傾向にも気がついてきていて、その対策としてヒトが動いてくれるようになるための改善策を立てています。

ストレスのエネルギーをより未来思考に変えられるんじゃないかって、自己催眠をかけているわけです。

表現をひとりよがりに変えると

「他人に期待せず、自分に期待するのです。」

みたいな(笑)

自分に期待したときのストレスは、他責にしてコントロールできなくなるのではなく、自分で修正するための原動力になります。

 すなわち、こうありたいという状況と、現状とのギャップですのでそのまま成長のための糊しろになるわけです。

自分のパフォーマンスに対する期待であれば、是非するべきじゃないでしょうか。

皆さんはどう思われますか?

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