口癖から見えること 「おかげさまで」は他力本願か?

こんにちは。

ラジオ出演の機会をもらいました

実は先日「森清華のLife is the journey」(かわさきエフエム 79.1MHZ/毎週水曜 午後9時より放送)にお招きいただき話をする機会がありました。

光栄なことに、第100回の放送だったそうです。

ameblo.jp

今年は、J-Wave, 文化放送に続き3局目です。

ちょっと本論からずれますが、ラジオって、実は今ビジネス的には盛り上がっているのご存知でした?

長らく右肩下がりだったラジオですが、東日本大震災以降音声メディアが見直されたことで、下げ止まり、2016年以降はスマートスピーカーの登場で成長基調に入ったそうなのです。

で、今回のかわさきエフエムの番組では、キャリアカウンセラーとして活躍されている森清華さんにインタビューいただく形で、自分のこれまでのキャリアについてお話ししたものでした。

大変話しやすい雰囲気で、楽しい時間を過ごすことができました。

オンエアを聞いてくれた知人からのコメントも多く寄せられたのですが、初めて聞く話が多かった、というものがありました。

自分としてはシンプルに今までたどってきた道なので、すごく当たり前なのですが、実はあんまり人に話していないのかな、という気づきがありました。

自分の話し方を聞いてみて

自分でも音源を聞いてみたところ、他にも印象的な気づきがありました。

滅多に自分の声を聞くことはないのですが...これ結構恥ずかしいですね。

思った以上に声が高いです。

それ以外に特に気になったのは、口癖です。

「おかげさまで」とか「ありがたいことに」という言葉が何度も何度も出てくるのです。これは意外でした。

僕は、口癖ってその人の気にかかってることとか、こだわりや姿勢なんかが無意識に出るものだと思っています。会話しながら、そういうの観察するのクセなのです。

ですので、自分のこの口癖を聞いた時、自分が声の主なのにもかかわらずいつもの観察グセが出てしまいました。

そして、この自分の口癖を持っていることにすごく驚きました。

結構自分で思っている以上に、今の自分があることを、いろいろな人のおかげであると本気で思っているようです。

何をなすにも人からのサポートがないと、ほとんど前に進みませんからね。

ただ、ここで「ちょっと待て」と思いました。

「周りがいてくれるから、何かができる」という発想は「周りがいないと何もできない」とか「今自分ができていないのは、自分以外の誰かのせいだ」という発想につながりはしないか。

という懸念を持ったのです。

この二つって何が違うのかな、根本は同じなのかな…ぐるぐる考えてもすぐには自分の中での結論が出ませんでした。

そういえば、自著「リーダーのコツ」の中で「成功は部下の手柄、失敗はリーダーの責任」ということを言っています。

これに似たメンタリティなのかな、とも思います。

じゃあ、なんでそれがいいのか。

他責にすると思考停止になったり改善活動に力を割けないため、自分が成長できない。だからやるべきじゃない、というのは説明できます。

一方で感謝すると何か(誰か)のためになるのか。

シンプルに、助けてもらったのだから当たり前のように感謝をするべき、ということなのか。それとも、今後も気持ちよく助けて欲しいから関係を保っておくために、という一種打算的な思いから感謝するべきであるなのか。

こんな感じで考えたのですが、今のとこ至った結論としては…

最近僕の中でのキーワードとなっているもので「人に対するRespect」があります。

これなのかな。

なんか、社会を前に進めるためには「人に対するRepect」って必要なのだと思うのです。

だから、いくらいいことを言っていても、敬意を書く表現(敬語を使いまくれ、ということではなく)や態度だと、一時的には前に進んでも長い目で見たときには逆戻りしてしまうことすらあるんじゃないか、と。

すなわち、僕の今の口癖の「おかげさまで」とか「ありがたいことに」というのは、「人に対するRespect」という最近常に考えているテーマが、表に出てきたのではないかと、思った次第です。

皆さんはどう思われますか?

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上意下達(ってなんて読むの?)ってヒトから学ぶ機会を減らしてないか? 

こんにちは。

”上意下達組織”

上位下達って言葉ご存知でしょうか?

未だに正式にはなんて読むか分からないし特に分かりたくもないのですが、上からの命令を無理矢理聞かせる組織文化や、逆にそれを言い訳に、上司に責任を丸投げする組織文化または、そういうシステムのことを指すんだと思っています。

そして少なからず日本においては、このなんて読むか分からない上意下達型の組織がまだ残っています。

基本的には僕はこの組織文化をネガティブにとらえています。

なんでかというと、個人の能力を十分に発揮できないからです。

機能するかどうかというと、機能するとは思っています。

ただし有効に機能するためには上司に当たるヒトが絶対に正しいという前提か、部下に当たるヒトがあまり訓練されていないとか情報量が圧倒的に少ないなどのハンデを背負っている場合に限られていると思います。

今の組織って、なかなかそういうことって無いですよね?

特に最近は、テクノロジーの移り変わりが激しいため、世の中の景色が一瞬でかわってしまいます。

変わることに対しては、若い人の方が情報収集能力や対応能力が高いため、一般に若い人の方が部下になることの多い日本の組織では、この面で逆転現象が起こります。

じゃあ上司部下を逆転すればいいか、というとやっぱりまだ仕事においては感情のコントロールとか、ネットワーク、問題解決など経験が活きてくる能力が必要とされます。

ですから、流石にそれも難しい。

上意下達からの解放

じゃあ、どうすれば良いか。

単純に、先輩や上司が自分たちが「絶対に正しい」「正しくなければならない」という意識を捨て、後輩や部下が「先輩が決めてくれるだろう」「指示を待っていれば良いだろう」という意識を捨てれば良いのです。

その方がお互いそうとう気楽です。ストレスがかなり軽減される。

先輩や上司から、分からないことを聞いたり、意見を聞いたりすればいい。最後の責任を取りさえすれば堂々と聞いて良いはずです。その方が情報も集まってくるし、自分の足りないところがドンドン補完される。

僕なんかも、年齢や立場が上の人から質問されたり相談されたりすれば嬉しいから役に立とうとします。「上司のくせに」とか「先輩なのに」なんて微塵も思わない。むしろそれでもついて行きたいと思えるヒトなら尊敬の対象です。

後輩や部下に当たるヒト達に教えを請うことは日常です。

教えてくれるヒトは、先輩や上司だけじゃないのです。

最近、リバースメンタリングという言葉を聞きます。これも一つの例でしょう。

「リバースメンタリング」とは? - 『日本の人事部』

上意下達の組織文化を維持していると、単純計算で組織の半分のヒトから学ぶ機会をうしなっていることになります。

極端に言えば、成長の機会を半分逃しているんじゃないでしょうか。

 皆さんはどう思われますか?

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片方の眉を上げられます? 〜対話と内省:あなたの得意技、自分でわかってます?〜

こんにちは。

この一週間は、セミナーや会食、インタビューなどで多くの刺激を受ける機会がありました。

その中で思ったことがあったので、今日はそれについて考えてみたいと思います。

片方の眉をつり上げられます?

突然ですが、みなさんは片方の眉毛を上げることはできますか?

実は僕はできます。右がわも左がわも。

で、ぼくは実は先週まで、これは世界中の誰もが、何の苦もなくできるものだと思っていました。

しかしできない人がいたのです!というか、日本人の多くの人ができないのです。

指摘を受けて調べてみると、日本人は10%くらいしかできないという説があるそうです。

事実、家族で試してみると誰もできません。娘がかろうじて左だけできました。

この方眉を上げる、というスキルについて、僕はいままで半世紀近く、ヒトに備わった通常機能の一つだと思っていたわけです。

ちょっとした日常会話の中で気付いたことなのですが、僕にとっては日常会話以上の意味が感じられました。

実は、本人が難なくやっていることも、他の人から見れば、ちょっとした特殊能力であることってあるのではないでしょうか。

気付いていないのは本人だけ。

「自分のことは、自分が一番良く分かっている」

という表現がありますが、実はそうではないんじゃないか。

自分が意識して得たものや実行しているものは認識できたとしても、何気なくやっていることの中には、誰かに指摘されないと分からないことってあるのではないか、それも意外に多いのではないか、って思ったのです。

内省も大事だけど、対話も同じくらい大事

 自分のキャリアだったり、自分の行動変革だったりを考えるときって、もちろん一人で考えて、振り返って反省したり分析したり、将来の方向性をイメージしてみることが大切です。

とくに将来について計画する時などは、今の自分の弱点や得意技を前提に、弱みを改善するか、強みを活かすかなどの方針を考えたりするでしょう。

でも、実はそのときに第三者から客観的意見を貰えるとすごく気付きになることがあります。

当たり前のようにやっていたことなどが、実は価値が高かったなんてことがあったら努力せずに宝モノが手に入ったようなもの!

逆に気付かなかったら宝の持ち腐れ。そこは気付いて活用するべきでしょう。

冒頭の僕の例の、まゆげの上げ下げなどは社会的な価値があるとはいえませんが、希少性は高いですよね。

コレに関連して、思い浮かべたことがありました。

かつて、学生時代にこんなことがあったのです。

大学一年の頃に、水泳部のある先輩から

「お前、スプリント向きじゃなくてロング向きだよ」

と言われました。

それまで50メートルとか100メートルばかりやってきていました。

そんな中で突然「ロング(400メートル以上の競技を差してました)」と言われたので、一瞬スプリンターとしてダメだしを食らったような感覚があったのと、思いも寄らないことだったので、その場は真剣に考えませんでした。

そしてその数年後。

大学四年になるオフシーズン。スプリントのタイムに伸び悩んだ僕は、オフシーズンだけ、ということでロングの練習をやってみました。

で、春先の試合にでたところ、いきなり所属した水泳部の歴代順位の上の方のレベルのタイムが出ました。

今までやってなかったこともありますが、出るたびに自己ベスト更新がつづきました。

結局、記録としては引退までの最後のたった半年だけやった、ロングのタイムの方がスプリント種目にくらべて相対的に高い記録、それも上り調子の途中でおわったのでした。

振り返ってみれば大学一年の時に、先輩から言われたことの方が正しかったわけです。

あのとき素直に先輩の言うことを聞いていれば!(笑)

対話を通じた助言や刺激は、自分が気付かなかった自身の側面を気付かせてくれるという意味で良い例じゃないかと思います。

真剣にアドバイスしてくれるヒトであれば、助言を求めることは一切遠慮せず、是非ともやるべきです。

言ってもらえる人を持てる幸せ

自分の思いがけない長所を指摘してくれるヒト、みなさんの周りにいますか?

自分を見ていてくれるヒトがいることが 、第一条件ですね。

それだけではなく、その人に対して意見を求め、さらにその意見を素直に聞けるような自分の余裕とか素直さがあることが次の条件だと思います。

皆さんは、そんな関係を築けているでしょうか?

あなたにも、まだ気付いていない特殊な能力があるはず!?

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「言うは易し、行うは難し」 西野監督や落合監督の意思決定

こんにちは。

ほとぼりが冷めてからだいぶ経った感があるのですが(ありますので!?)、先日のW杯ロシア大会における、サッカー日本代表ポーランド戦を見ていたときに思ったことについてコメントしてみます。

賛否両論のポーランド戦「最後の10分」

状況としては、ご存知の通り、”格上”のポーランドに対して負け試合ながら一点差を保っている中で、同時進行中のセネガルがコロンビアにそのままのスコアで負ければ、日本が決勝に進める、というものでした。

そこで当時サッカー日本代表チームを任されていた西野監督の下した判断は、これ以上強豪のポーランドを刺激することなく、このままのスコアで試合を終えるために時間までパス回しをし続ける、というものでした。

賛否両論あったと思いますが、評価がどう固まったかは存じ上げません。

そのときに、僕が思い浮かべたのが「確率論」というやつです。

おそらく、試合前から、いろんなケースでの場合わけをしてアクションを決めていたのだと思います。

同じく決勝進出のかかったコロンビアが点差を守り勝ちきる確率と、強豪ポーランドを刺激して2点差以上で負けてしまう確率などを勘案したのでしょう。

ここで、絶対にぶれなかったのが何を目的にこの試合をやっているか、という軸足だと思います。すなわち「決勝進出」という目的に対する合理性。

もちろん、どの程度かまでは予測できなかったかもしれませんが「世間からの批判」というリスクも検討していたとは思いますが、あくまでも「決勝トーナメント進出」が目的なのです。

僕個人は、西野監督の意思決定を尊重しましたし、すごいリスクテイカーだな、尊敬の念を強くしました。

こんなこと言ってますが、自分が実際そのような状況で同じ決断ができるか、というとやるんでしょうが、辛いだろうな、と思ったりします。

例の、幻の完全試合

この光景を見ながら、思い浮かべるシーンがありました。

同じくプロスポーツの世界ですが、2007年プロ野球日本シリーズで悲願の優勝がかかった中日ドラゴンズ落合監督が、8回まで完全試合をしている山井投手を下げ岩瀬投手に9回を任せた試合です。

結果は1対0で中日ドラゴンズが優勝を果たしました。

2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投 - Wikipedia

当時のこと、すごく思い出します。

こんな意思決定できるのか、と。徹底的に目標にこだわった確率論での意思決定でした。ノーヒットノーランじゃなくて、完全試合ですよ…

8回を投げて来た山井投手と、鉄腕と言われる岩瀬投手のどちらが1点差を守りきる可能性が高いか。

冷静な今なら当然確率的には岩瀬投手です。でもあの試合の盛り上がりの中、完全試合を達成して日本シリーズ勝利、という偉業を夢見るのが人間です。

しかし、落合監督の意思決定は違ってました。それも、状況的に試合前にシミュレーションしていたとは思えません。

これこそ「悲願の日本一」という目標にを達成できる可能性がどちらが高いか、という目的合理性を徹底的に追求した、究極の姿だと思うのです。

そこには「華々しく玉砕する」とか「男気(なるもの)を見せられれば後悔などしない」と言った、日本の組織が過去やってきてしまった、論理を超えた謎の意思決定というものが存在しません。

すなわち、ロシアW杯のケースでいえば

「決勝トーナメントに進む」

に相当する

「53年ぶりに日本一になる」

という「目的」に対する究極の合理性追求があったわけです。

これは、強烈なインパクトを僕に残してそのあとの学びとなりました。

「ヒリヒリする意思決定ってこういうことなのね」って。

実は当時、この中日ドラゴンズの日本一が決まった試合の翌日、自分の会社の専務とお客さんの社長さんの3人で別件でミーティングをしたのですが、この話題になりました。

そして3人とも「あの意思決定ができるかどうかは分からない」という見解で一致しました。

また、あの”名将”野村克也監督のコメントも「俺にはできない」というものでした。

それ以来、企業経営者として多くの意思決定をしている人に対して、尊敬の念を抱かずにいられなくなりました。

また自分が重要な決定をするときには、いつも頭の隅にあの「完全試合」を思い浮かべるようになりました。

「目的合理性」へのこだわりです。

皆さんは、こういうことってありませんか?

 

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博学篤行(はくがくとくこう) 蚤の市で買ったお土産の印章

こんにちは。

休暇を取得して、中国四川省に行きました。

成都文殊房地域の蚤の市

帰国当日の旅行最後の日に自分用に何かお土産を、と思って蚤の市をぶらぶらしていたときに、印鑑を売っている店があったので入ってみました。

大量に印鑑があったのですが、ちょっと目を引いたのがコレ。

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その場での僕の解釈は、知識や情報などのいわゆるインテリジェンスだけではなく、ちゃんと行いも正しいものでなければならない、という意味なのではないか、というものでした。

まあ、この印章の芸術的な価値はそもそも僕にはわからないのですが、書いてある文字の意味するところとして、日頃そうありたいと思っているものです。だから、コレだ!と思い値段を聞いたところ、ちょっとぼってる感があったので、一旦引き下がりました。

交渉の戦略を練ったあと、改めて訪問して購入しました。(こういうことをする時点で「博学篤行」ではないのかもしれませんが。。。)

博学篤行(はくがくとくこう)

先ほど、ネット検索してみたところ、どうやらこの「博学篤行」は、四書五経の一つ「中庸」の一節のようです。

原典に当たってはいないのですが、以下にネットでの検索結果を引用します。

Words of Wisdom and Ignorance — 「博学之 審問之 慎思之 明辨之 篤行之」(博くこれを学び、審らかにこれを問い、慎んでこれを思い、明ら...

すなわち「博く学んで、わからなければ質問し、よく考え、分析したあとちゃんと実行せよ」という教訓を示した内容と解釈しました。

購入を決めた時のファーストインプレッションと意味は大きくは変わらないな、と感じました。

そして何よりも「中庸」の中の一節だったので、よりありがたみを感じました。

続けて色々調べたら、あの孫文も揮毫にこの中庸の一節を引用したそうなので、さらにミーハー心が刺激されました。

かの福澤諭吉も「学問のすすめ」の中で、IBMの創業者のトマス・J・ワトソンも「Think」の思想の中で、行動変革を呼びかけました。その際に、プロセスないしは方法を伝える言葉を残しています。

福澤諭吉の「学問のすすめ」の「十二編」の中に

すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。

 という記述があります。

ワトソンも

And we must study through reading, listening, discussing, observing and thinking. We must not neglect any one of those ways of study.

 という形で、Thinkに至るプロセスを言葉で残しています。

この「中庸」も、「博学」「審問」「謹思」「明辨」「篤行」というプロセスを示して「誠」に至る道筋を示しているんだと思います。

知恵ばかりではなく、行動も伴った人間でありたいと、コレからも常に念じて生きて行きたいと思います。

機会があれば、この印を使ってみたいと思います。

皆さんも「座右の銘」的なもの、ありますか?

 

 

 

「ポリシー」と「変なこだわり」は違うわな。

こんにちは。

「蜀」の地で考えた

今、休暇を活用して中国四川省省都である成都に来ています。

三国志に出てくる劉備玄徳や諸葛亮孔明が活躍した、蜀の首都でもあります。

とはいえ三国志の旧跡を訪ねる旅ではなく、成都に旅行することが決まってから調べたら「三国志で有名らしい」ということがわかって、漫画を30巻買って予習した、というのが実際なのですが。

ただ、やっぱり多くの人の心を打つだけあって三国志は面白かったです。

僕は劉備玄徳は情の人、諸葛亮孔明は理の人という感想を持ったのですが、皆様はいかがでしょうか?

 で、その情の人である劉備玄徳ですが、時々理屈に合わない「非常に人間的」な意思決定をする人です。

彼の人間的な意思決定の基準が「義」とか「忠」とか「誠」とかに基づくから、人々に好かれるんだろうなあ、と思うわけです。

「利他」と言い換えてもいいかもしれません。そしてこれが彼のポリシーなんだろうな、と。

彼のような人は、まさに人間性で引っ張るタイプのリーダーですね。

物事を判断するときに、基軸となるポリシーって重要だと思います。

ところで「ポリシーを持っている」というと聞こえはいいですが、この「ポリシー」と「変なこだわり」との違いって、何だろうか。って考えたことあります?

なぜか成都まできて、そんなことを考えました。

よくこういうときに自分で考えるのは「目的に対して合理的であるかどうか」が判断基準である、というものです。

そうすると、それこそ「合理的」に判断できると思います。

劉備玄徳が人の心を打つ理由

ただ「劉氏による中国統一と漢王朝の復活」をともに目標に掲げたはずの劉備玄徳と、諸葛亮孔明が一見異なる判断をしがちである、というのはなんでなんだろう?とも考えました。

ここが、ポリシーの違いなんだろうな、と。

劉備玄徳は、「劉氏による中国統一と漢王朝の復活」以外にもう一つ大きな原点を持っていました。

桃園の誓い、というやつです。

桃園の誓いとは (トウエンノチカイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同、同日に死せん事を」

これがあることで、最終的には命を落としてしまう原因になるような判断をしてしまいました。(と僕は解釈しました)

もちろん「変なこだわり」とは言いませんが、大目標である「劉氏による中国統一と漢王朝の復活」の足かせになったように思います。

これって、我々の日常の判断にも似たようなことありませんか?

「あいつとだけは、一緒に仕事をしたくない」とか「週末は絶対仕事しない」というやつ。

これって、ポリシーなんでしょうか?変なこだわりなんでしょうか?

基準なんて無いのかもしれません。

が、あえて言えば「利他」と「利己」の違いだったりしないかな、と思うのです。

劉備玄徳は「民」や「義兄弟」と言った他者を利することを重んずることが多かったように感じます。

あなたの「ポリシー」は利他の要素が含まれているでしょうか。それとも「利己」の側面が多いでしょうか。

皆さんはどう思われますか?

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否定されたことに対する反応 〜「ゴミ」とか「下劣」とか「卑劣」と言われて〜

こんにちは。

結構ボロカス言われます

社会生活をしていると、いろんなところで否定されること、ありますよね。

あ、無い人もいるかもしれませんが、まあ、少なくとも僕はあります。

たくさん証拠はあるのですが、分かりやすいところではコレ。Amazonの書評です。

下劣な本

ゴミ本

上側にある「下劣な本」のときだけは、それなりにショックを受けました。

日付を見ると6年以上前の話なのですが、当時38歳でしょうか。生まれて初めて名指しで「卑劣なヤツ」と言われたわけですから。

なかなか無いですよね、卑劣っていわれること。経験あります?

コレ読んだ後2−3時間落ち込みましたが、今では講演のネタとして使わせてもらっています。稼がせていただいているので感謝しかありません。

コレだけではありません。

最近も本の感想として「何処かで読んだことが纏めてあるだけ」というつぶやきがありました。

多分発売日的にはこちらの方が先なんですけどね。その後出た本と重なるのは許してほしいです。

でも、今ではそういうの全く気にならなくなりました。

むしろ、お客様の声なので今後の改善のための貴重なインプットである、と心から思えるようになっています。ホントに。

批判への対処法

これ、書籍出版だけではなくどんなビジネスでも同じだと思います。

もちろん、度を超した苦情や脅迫、営業妨害はルール違反だと思いますけどね。

否定されたことに対して、色んな反応があると思います。

  • クサる
  • すねる
  • 落ち込む
  • キレる
  • 怒る
  • 投げる
  • 無視する
  • 逃げる
  • その場逃れの言い訳をする

などなど。

感情をもった人間ですから当然だと思います。

僕もやっぱり否定された時は、当然のようにこのような感情のどれかを持つことがあります。

ただ、反応を起こす前に少しだけ間をおくことを、極力心がけてます。これを僕は「一拍の哲学」なんて言ってます。

なんでかというと、反射的に感情のまま対応すると自分が損をするからです。

言い方を変えると、自分が得をするチャンスを逃してしまう可能性が高いからです。

批判って、それだけが目的の「いちゃもん」以外は、必ず何かそれが発生したキッカケや理由があるもの。

それを見極めて改善することで、自分が成長したり、サービス品質を上げることにつながります。

これって、結果的に自分が得することですよね。

なので、文字通りむしろ喜ぶべきことなんだと思います。何も言われないよりも圧倒的に良い。

反省材料として取り込めるだけ取り込みましょう。

「それだけが目的のいちゃもん以外」と書きましたが、この「いちゃもん」が多いのも残念ながら事実です。

この「いちゃもん」に対してこそ、さらに輪をかけて反論や反応するのは無駄な労力です。

相手にするだけ損、というやつです。そういうのは対処方法としては、「無視」でしょうね。

「いちゃもん」か、助言を含んだ「苦情」かの境目の基準が難しいときは、相手を見て判断しましょう。

シンプルなのは「期待を裏切らない人だけは決めておく」ということになるかと思います。個人名でもポジションや「層」などの概念でもいいのですが、この人(達)からの期待だけは裏切らない、という基準をきめておけば、無視するか対処するかはきめられるかと思います。

皆さんはどう思われますか?

 

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