IBM在宅勤務関連報道に公式見解? 〜本来の目的は従業員エンゲージメントの向上〜

 こんにちは。

職住近接型在宅勤務

日本国内の一連の"IBM在宅勤務廃止"報道に対して、日本IBMの広報から裏を取ったというニュースが流れてきました。

cloud.watch.impress.co.jp

内容を見ると、偶然ですが先日の僕の「個人の見解」コメントと同じ内容でした。

ということでこの件は一旦終息ですね。

eitarokono.hatenablog.com

何のための在宅勤務?

ところで、やっぱり気になるのが、何のために在宅勤務を推進するのか?日本においてはどんな意義があるのか?という点ですね。

社員が働きやすい環境を整備することで企業のパフォーマンスを上げることなのは間違いありません。

今までは、残念ながら退職したり、休職したりしていた社員がフルタイムのままで働き続けられることを会社が認め、その人たちの会社でのパフォーマンス(やる気と能力)を引き出すことが目的です。

これを「従業員エンゲージメント」と言います。

ビジネス界が2000年代に「従業員満足度」で痛い目にあったあと、出てきた考え方です。

単に従業員が満足しているのではなく、会社の方針に対して同意し業績貢献にモチベーションを感じているかどうか、ということがエンゲージメントのポイントです。

日本の「エンゲージメント」が低い理由

で、この「従業員エンゲージメント」が日本ではどういう状況かというとつい先日も以下の報道がされたように、どの調査をとっても日本の組織は「従業員エンゲージメント」の度合いが低いのです。IBMの提供するエンゲージメント調査でも日本は最下位です。

www.nikkei.com

エンゲージメントが高い組織は①業績が高く、②コンプライアンス問題も起きにくく、③離職率も低い、という調査があります。

つまり日本の組織に置いて、このエンゲージメントの数値が高くすれば①、②が上がる可能性がある、と解釈できます。

しかし、ここで疑問が残りますよね。③の離職率がそれほど高くない組織が日本ではほとんどなのです。

これは何故なのでしょうか?

僕の仮説は、こうです。

「日本の組織には、本来なら辞めてもいいほどエンゲージメントレベルの低い従業員が、雇用慣習にながされて、在籍し続けている」

要するに「イヤなのに、何故か会社にいる」従業員がたっくさんいるわけです。社内失業というやつですね。

外を見れば、もしくは自分で作れば、もっともっと、その人の能力が発揮される環境があるかもしれないのにね。

なので、僕の考える解決策はシンプルに言えば、雇用の流動化です。

「イヤな組織」にそのままいるのではなく自分が活き活きと働けるような場所を見つけるか作るかすれば良いんですよね。

そのためには、起業のし易さの向上、社会人学習の推進や複業の推進による新たな能力の獲得や雇用機会の提供、言い方を変えると推進のために立ちはだかる障壁の撤廃が必要だと思います。

スタートは僕らの意識改革

まずは、僕たちの意識の方から変えないといけないですよね。

こういうことを言うと「日本的雇用慣行にはそれなりの良さがある。安易な欧米の真似事ではいけない」と言われます。結構な規模の会社、中でもエクセレントな会社の経営層の方でもこう言うことがあります。

もちろん、僕はその場では「ですよねー」と言います。一見正しそうなこの理由に対しては反論しないことにしてるんです。議論の出口が見えないから。

「だって、エンゲージメントが低いじゃん」と言っても、返ってくる言葉は「エンゲージメントの結果が間違っているのだ」だったりします。対応策は「もっと高くつけるように社員に周知しろ」だったりします。

まずは、各自が行動をおこしてみるのでしょうね。

「日本的雇用慣行にはそれなりの良さがある。欧米の真似事ではいけない」というやらない理由を言われる前に...

みなさんはどう思われますか?

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この国の「在宅勤務」と、かの国の"Remote Work"はちょっと違う

こんにちは。

Wall Street Journalの記事

先日Wall Street Journalに添付のような記事が発表されました。在宅勤務に関する米国IBMの判断の衝撃を伝える内容です。

僕自身は会食の席での話題で友人から教えてもらいました。

jp.wsj.com

なんか、ブログのアクセス件数の動きがいつもと違うなあ、と思ってはいたのですがどうやらこれが原因でした。

元記事はNews Picksでも掲載され、またHARESの西村さんにもピックされていたのですが、当ブログの以下の記事を引用いただいていたのも要因のようです。

NewsPicks - 西村 創一朗

eitarokono.hatenablog.com

もともとは北米のマーケティング部門で実施されていたものでしたが、今回の記事はその対象となる部門が広がったことを報じています。

さらに今回は報道担当者のコメントが付いているところが前回とは異なります。実際に影響を受ける社員にとっては、大きなインパクトなのだろうということもわかります。

報道を受けての(あくまでも個人の)見解

社員でありつつも、当ブログでは会社を代表していない僕の立場から、報道を通じての「感想」は2点ほどです。

①Sell What We Used

自社での先進的実験を通じて得たノウハウをクライアント企業に対して提案してきたIBMです。社員としては、会社も何か始めるのだろうか、という感じの見方をしています。Globally Integrated Enterpriseの実験やDiversityの実験などが行われたときのように、近い将来メッセージを社会に向けて出して行くのだと思っています。ご期待ください。(あくまでも「個人の意見」ですよ)

②「在宅勤務」の示すもの

さらに、ここも大きなポイントなのですが、この記事でいう「在宅勤務」の原語である"Remote Work"というのは、日本で現在働き方改革の一環として導入が推進されている「在宅勤務」というものとは大きく異なります。

日本は「在宅でも」勤務できるように、という意図でそれを推進する制度や、組織文化の醸成を推進している状況です。

米国ではこの段階は数十年前に済んでいて、いまや「在宅でしか」勤務しないものを「在宅勤務=Remote Work」と言っています。

ですので、日本で言えば「福岡在住・在勤、札幌オフィス所属」とか「沖縄在住・在勤、東京オフィス所属」のように全然距離が離れたところに住んで、オフィスには決して行かない、呼び出されたら交通費と出張手当を請求する、というような立場の人が数千人いる状況なわけです。

これを再び「同一オフィス在勤・所属」に戻そう、ということなのです。とは言え「在宅でも」勤務できる程度の制度は残るはずです。(あくまでも「個人の意見」ですよ)

在宅勤務はやっぱり推進すべき

 ここで一番お伝えしたいと思うことは...

在宅勤務は何のために推進するのか、というところに立ち戻って考えてみると、実際に会って仕事をすすめるよりも効率的になるから、という理由ではありません。

在宅勤務を推進しないと、働けなくなる人がいるからです。いわゆる「働き方弱者」の人は、介護や育児を抱えていたりして従来型の、朝から晩まで会社に物理的にいなければいけない、という働き方ができません。

しかし、そういう人にも働きたいという意思があり、組織や社会に貢献できる能力があります。なかなか人が取れない現代においては社会としてはそういう人たちに活躍してもらわなければなりません。

そして、それが制度と意識を少し変えて、ITの力を活用すれば実現できるのです。

その方向性に対してIBMは逆行しているわけではありません。ただ、行き過ぎた”Remote Work”を少し引き戻しているというだけなのです。(あくまでも「個人の意見」ですよ)

以上、あくまでも「個人の意見」でした。

みなさんは、どう思われますか?

 

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一世代前の謎に近づく 〜誰かの一世代前としての自覚〜

対面➡電話➡メールの順! 〜働き方改革の本質は効率性〜

こんにちは。

アメリカ人はメールに返信しない?

先日こちらのブログを読んで感銘をうけ、FBでシェアしたところ色々な意見をいただきました。いろいろな見方があることを改めて知ることができて結構うれしかったです。

ktdisk.hatenablog.com

僕のシェアした意図としては以下の2点がポイントでした。

①確かに、アメリカ人そういうひと多いですね。ですので、相手が誰であろうと僕は目的完遂までおいかけます。(いわゆる「トラッキング」ですね)

②とはいえ、日本人にも返信無い人多いかも。

というもの。

①すくなくとも僕の周りのアメリカ人は朝から晩まで働き、日本の昼間の時間帯でもかなりの確率でリアルタイムに返してくるので、あんまり心配は無いのですが、とはいえ全員が同じレベルを期待していると痛い目を見るので、つねに海外へのメールは一度では戻ってこないもの、というスタンダードを設けています。

ラッキングすると、淡々と返してくれたりします。

②一方で、何も「アメリカ人は」ではなくメールを大量受信している、僕を含む日本人も、理由はともかくタイムリーに答えきれないところもあり、つい先送りしてしまうことがあります。

メールはそれほど効率的ではない。

24時間働きつづければ当日中に返すことはできるのでしょうが、今の世の中あんまり遅くまで仕事しているというのも恥ずかしいですし、そもそも遅くまで働いて社会に対する反逆者になるわけにも行かないのでなるべく9時から18時の”常識的な”時間帯に仕事を終えようとします。

夜遅くまで働いてよかった昔だったら当日中に絶対返すぞ!とおもっていたので返していたのですが、結構選択的になってきているというのが実情です。

すなわち、いつまでも働いてもバカにされなかった時代と同じだけのパフォーマンスをあげようとすると、今の働き方改革の時代は全員が効率的に働かないきゃいけないわけです。(昔からやっとけ!というのは一旦おいといて...)

そうすると、このメールというヤツが、厄介になってくるのです。

対面だったら、電話だったら、数秒から1分以内に済む用事も、メールだとその5-10倍かかることもざら。働き方改革に逆行するツールに成り下がってしまいます。

もともと僕は、礼儀も、常識(とかいうやつ)もすっとばして最短距離でゴールに向かいたいタイプなので、秒単位での非効率が気になるのです。

「対面➡電話➡メール」の原則で働き方改革を実現

自分がリーダー・マネジャーとして立ったならばメンバーに徹底するのが次の原則です。

コミュニケーションのツールの優先順位は「対面➡電話➡メール」である。

ただし、以下のメールの利点が有効な場合は除く。

①証拠能力:履歴として文面に残す必要がある、またはその方が有利なとき

②一斉同報機能:同じことを複数の人に同報するとき

③時間差活用:相手に読む時間の選択をゆだねるとき。特に時差がある国とのやりとり

この3つの利点を活用しない場合は「対面➡電話➡メール」の優先順位の原則を守ってもらいます。

この原則を外すと働き方改革は絶対に成立しません。

個人的な経験でいえば、同じフロアであれば歩いていって話す方が所要時間も目的達成までのリードタイムも大幅に短く済みます。顔を見て話すことの利点は得られる情報やsのあとのリレーションなどどれをとっても圧倒的に意味があります。

電話にしても、メールで新規文書を開いて宛先を書いた時には時にはダイヤルし終わっているでしょうし、挨拶文を書き終わるころには用件はおわっているでしょう。さらに交換できる情報にしても、対面ほどではないにしても、メールよりは圧倒的に多くの情報を交換できます。

そもそもメールというのは、返信するしないの判断を、相手に権利としてあたえてしまっているかのような印象が付いて回ります。

対面で声をかけた時に無視するのはよっぽど勇気がいります。電話に出ないというのもメールを無視するよりはかなりプレッシャーがかかる作業です。

仕事というのは如何に自分のペースに相手を巻き込むかというところがポイントです。メールは相手のペースに巻き込まれやすいと言う点ですでにポイントを外してしまっているという視点もあります。

20世紀末にビジネスシーンに入ってきた電子メールですがついその気軽さに甘えて、効率性を忘れてしまってはいないでしょうか。

働き方改革の本質は効率性であって、ITを使いこなすことそのものではありません。ITを使って効率的になる場合は、使いましょう。というものです。

実は件のアメリカ人も効率重視!?

で、冒頭のアメリカ人のメールに対するメンタリティにもどりますと、個人差はあるものの僕の経験では「電話しようよ」と返信があることが多いです。メールでベタベタかいても、時間差もあるし情報の限界もあるし。だったら15分でも電話会議した方がはやいよ。ということです。

アメリカ人はよく働く傾向が高いですが、さらにいえば効率的に働こうという意識も高いように思います。メールでやるんじゃなくてせめて電話にしようよ、というのが彼らのホンネなんじゃないでしょうか。

みなさんはどう思いますか?

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「傍流」を「本流」に変えられる組織 〜Watson Summitを終えて〜

こんにちは。

今週IBM Japanにとって年間最大のイベントであるWatson Summit 2017が実施されました。

内容の詳細はこちらをご覧ください。

IBM Watson Summit 2017 | IBMイベント・ポータルサイト

社員側でありながら、ものすごいイベントだったな、と思います。

内外の注目度合いも、初めてWatsonの冠を戴きインパクトも高かった昨年と比べても圧倒的でした。改めて内輪ながら企画立案に関与したメンバーに敬意と感謝の意を表したいと感じています。
(社内的には、これだけの投資を回収すべく現場の我々が動く番ですね...)

Watsonの沿革

ここから先が本題です。

大盛況であったとはいえ、Watson事業は最初からIBMのビジネスの根幹であったわけではありません。
社員として初めてこの”Watson“の名を耳にしたのは2011年でした。

www.ibm.com当時の社員としての僕たちの反応としては「これは何か仕事と関係あるのだろうか?」「なんでこんなことで騒いでいるのか?」「この忙しいのに、何故こんなことにお金を投資するのだろう?」といったものが主流だったようにおもいます。

というか、そもそも大半の人が一般報道と同じ扱いで解釈していました。

ところが、CEOレターなどでコメントされていたり、”Watson事業部”が設立されはじめました。

それでも

「あー、海の向こうの話なんだろうな」

というのが空気でした。

そして、そのうち日本でも導入事例の報道が出始め、「Watson事業部」ができるとの報が。2014-2015年あたりでしょうか。

この辺りから、どうやら会社も本気らしい、という空気が出てきました。

報道も加熱し始め、いろいろな企業が人工知能というキーワードでのコミュニケーション活動を開始し始めたのが2016年頃でしょうか。

その空気をリードするように、それまで別の名前で実施していた日本IBMのイベントも2016年からWatson Summitと言うようになりました。

とはいえ、それでも、それでも、それでも会社の収益の主流は既存のビジネスが中心でした。

「傍流」から一躍「本流」へ

そんな時代を通じて今があります。そして今回の大盛況のWatson Summit 2017。

今のWatsonに繋がる基礎研究は2005年頃から始まったそうです。

そのころのメンバーですら今を具体的に想像していたでしょうか。おそらく希望は持っていたものの、想像はできなかったのだろうと想像します。

日本でも初期にWatson事業にかかわった人たちも、確信に近い将来展望はあったかもしれませんが、今程の自信ではなかったはずです。

まさに面目躍如といった感じなのではないでしょうか。

必ずしもWatsonのケースに全て当てはまらないかもしれませんが、ここで僕が思いうかんだキーワードが「傍流」という言葉です。

Watsonは今でこそ会社の柱として正式に戦略やビジョンの中に位置づけられています。しかし敢えて言えば、それまでの中心はシステムインテグレーションやパッケージソフトウェアの導入支援といったサービス事業でした。

これらのビジネスの方が規模が大きいですし、優秀人材も集まっておりまさに「本流」と言われた時期が長く続いていたのです。

そちらからはWatsonは「傍流」とみられていた感は否めませんでした。

しかし振り返ってみると、1990年代、大きくIBMがサービス事業に舵を切らなければならない時には、ハードウェア事業からは、サービス事業が「傍流」と見られていたわけで、なかなかその変革が進まないためにPWCコンサルティングビジネスを2002年に買ってテコ入れした歴史があります。その音頭取りをしたのは現CEOのジニー・ロメッティーだったわけです。

あまり表には出ませんが、やはり業態転換を図る時にはいろいろな抵抗や、それに伴う摩擦がありました。

「傍流」を「本流」に変えられる組織が残る

歴史は繰り返すといいますが、大きく業態転換を図る時にはいろいろな歪みがあるとともに、必ず「傍流」扱いされる将来の「本流」があります。

この「傍流」を「傍流」のまま潰してしまわず、または潰さないまでも立ち上がるまでに不必要な時間をかけず、着実に育てられる組織が環境変化にともなう変遷を生き抜いてこられるのだな、と思ったわけです。

皆さんの周りにいませんか?将来の「主流」を「傍流」だと言ってないがしろにし、潰しかねない現在の「主流」の人たち。もしくは「傍流」すら立ち上げられない人たち。

だいぶ遠回りな論理展開になりましたが、大盛会になったWatson Summit 2017を通じて感じたことでした。

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Cognitive時代の人間の価値とは 〜DHBR最新号より〜

こんにちは。

知性を問う!

最近はなんか自分の書籍も含めて、本稿は書評が中心になってしまっていますが今回も読後感になりました。ただ「ホワイトカラーの生産性向上」という意味で共通点がある書籍しか選んでおりませんのでご安心ください。

さて、「ホワイトカラーの生産性向上」テーマに限らず読みたい本だらけで、発売からだいぶ時間が経ってしまいましたが、ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー「知性を問う」の論考を読み始めました。

(ちなみに、今5冊の本を同時並行で読んでしまっています。性格なのでしょうか。時間を過ごす各部屋に置いたり、カバンの中に忍ばせたりしています。)

まず、やはりヤフーの安宅さんの論文を読みました。

「知性の核心は知覚にある」と題したこの論文、始まりは「知覚」というものについて解説したパートで始まったのですが少し難易度が高い感じがしました。だんだん読み進むにつれ僕に取っては身近な話題になってきたので、もし最初に挫折しそうになった人は是非へこたれず読み続けてください。ちなみに僕は点二回読んでだいぶ理解が進みました。(まあ、当たり前ですが)

課題解決2つのカタチと「知性」

前回拝読した人工知能特集のときもそう思ったのですが、3歩先行くというよりは半歩さきゆく、というイメージなので、「そうじゃないかなー」とおもっていたことや、感覚で理解したつもりになっていたことを「そうそう、こう言うことを言いたかったんだ」とか「漠然と思っていたことって、つまりはこれだったのか」という気付きを与えてもらえます。

僕がもっとも「そうそう、これこれ」と思ったのが、掲載号でいうとP40以降です。

知性が示す課題解決の2つのタイプとして「ギャップフィル型」と「ビジョン設定型」の比較です。

「ギャップフィル型」とは、問題発生時に回復のためのアクションを考え実行し、現状を回復すること。「ビジョン設定型」は向かうべき方向性を定め、そこに至るまでの道筋を描きアクションをとることと解釈しました。

これ、このままジョン・コッターの「マネジメント」と「リーダーシップ」の整理に対応するな、と感じました。

また、安宅さんが『「ビジョン設定型」のアプローチを取るべき時に「ギャップフィル型」のアプローチをとってしまっている例をたくさん見てきた』と仰るように、この誤解というか知性の限界は現場で頻発していると思います。枚挙にイトマがないのです。今現場でこれに直面していることもあり、この部分が一番僕には響きました。

そして、今後AIがどんどん仕事場に入ってきた時にも人間に残っていくのはこの「ビジョン設定型」のアプローチなのだ、と理解しました。

とすると、「マネジメント」が行っている既存事業はつぎつぎとAIがとってかわる領域になっていき、人間が関与しつづけるのは新しい領域を中心としたよりクリエイティブで「リーダーシップ」が求められる領域になっていくのでしょう。

知性を鍛えるために

この場面で求められる「知性」を鍛えるためには、大きく二つのマインドセットが求められる、とも最後に書かれています。

キーワードは「hands-on / first-handの経験」と「言葉、数値になっていない世界が大半であることを受け入れること」ということです。

一次情報に基づき「自らの知性」を働かせること、そして右脳的な知性を解放して知覚することに抵抗をもたないこと、というメッセージと解釈しました。

論文を肯定的に読んでいるからかもしれないけれど、自分としてはそういう時代への準備が意外にできているんじゃないかな、と思いました。

もとが楽観的なこともあり、とうとう時代が追いついてきたのかな、と本気で思っている自分がいて少し複雑な気持ちになりました。

Cognitive 技術をつかったHR領域のソフトウェアを世にひろめて、より効率的で品質の高いHRの実現をお手伝いするために仕事をしていることもあり、非常に興味深く拝読しました。

この後に続く朝井リョウさんのインタビューも楽しみです。(小説をかったのでどちらを先に読もうかな)

皆さんも是非読んでみてください。

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福澤諭吉が本当に言ってるんです 〜分かりやすくしすぎたか!?〜

こんにちは。

『現代語訳 学問のすすめ』への反応

『現代語訳 学問のすすめ』を出版して一ヶ月がたちました。
本作に限らず本を出して学んだことに、読者の方からの反応って発見や学ぶことが多い、というものがあります。

「こういう表現をすると、世の中の常識としてはそのように解釈されるのか」とか「自分の伝えたかったことが伝わっている!」というものから、自分が想定していた以上の反応をいただき、自分が書いた文章にもかかわらず「そんなに深い学びがあるのかー」とか「意外にいいこと言ってるんだなー」という感想をもつこともあります。

今回の著作についてもイベントの場などで直接コメントいただく感想以外にも、ブログや書評などでコメントいただいていたりします。

「現代語訳学問のすすめ」著者の河野英太郎さんの話を聞いて感じたこと - たっけのメモ

とか、

Amazon書評

などなど。

大変うれしいです。引き続きみなさん、よろしくお願いします。

まさか...福澤諭吉がこんなこと言ってる?

そんな中、今回の企画ならではという反応もありました。

動画 | 本の動画投稿コミュニティサイト「本TUBE」
こちらでインタビューしてくださった中村さんのコメントにもあるように、これまで「学問のすすめ」を呼んだことがない方で、そのタイトルや醸し出す雰囲気から一般に想像される内容と実際に書かれている内容のギャップからか
「本当にこれ、福澤諭吉が言っているんですか?」
という反応です。

言ってるんです!

たとえば、先のインタビューの中でも話題になっている「9編 お金のためだけに働かない」に出てくる「アリンコ」という表現についてですが僕は以下のように翻訳しました。

こうして細く長く生きながらえることに注力して、一軒の家を守っている人がいたとします。この人は「自分は独立して生計を立てている」と誇らしげに言いますが、それは大いなる勘違いで、このレベルでは、せいぜい駆け出しのアリンコ程度に過ぎません。一生頑張っても、アリンコの生涯の業績にに並ぶことはできないでしょう。

実際には原典では次のように書かれています。

とにもかくにも一軒の家を守る者あれば、みずから独立の活計を得たりとて得意の色をなし、世の人もこれを目して不覊独立の人物と言い、過分の働きをなしたる手柄もののように称すれども、その実は大なる間違いならずや。この人はただ蟻の門人と言うべきのみ。生涯の事業は蟻の右に出ずるを得ず。

これなど、あまりに身近な表現だったためか、原典をご存じない方には翻訳著者である僕の創作だとおもわれている節があります。

1万円札のまじめな表情からは「アリンコ」とういう表現とはつながらないでしょうね。
なので、広告を出稿した時にも「超訳」という表現が使われてしまったこともありました。
超訳とは、”超訳者”の独自解釈がはいったり、大幅に内容を削ぎ落とした部分訳のことをさすことが多いのですが、今回の『現代語訳 学問のすすめ』逐語訳です。
分かりやすく表現を変えた部分はたくさん(というかほぼ全部)あっても、要素を削除したり独自解釈を加えた部分はありません。
現代人の僕が独自に創りだした、そう見えてしまうほど分かりやすく訳したためこのような反応になってしまったわけですね!!
他にも、「こんなことは3歳の子供でも分かる」とか、「やりたければ、勝手に1人でやっていればいい」「こういうことをいうのは小者でしょう」などと結構からくちな面白い表現を多用しています。
これも全て、僕の創作ではなく実際に原典で福澤諭吉が言っている表現を現代語に訳したものなのです。

福澤諭吉の感情も現代に蘇らせる

原典の表現や従来の”現代語訳”では、今の時代の人たちに伝わりにくかった福澤諭吉の感情面もこのように表現することで伝わるようになっています。

原典の出版当時にはおそらくそれまでの古文的な表現からはかなり画期的に新しい表現だったはずで、であるが故に当時の人口の10人に1人が手に取ったといわれるほど出回ったのだと思います。

それを今の基準でよみがえらせる、というのは大変有意義な仕事でした。

是非一度手に取ってみて頂きたいです。

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