「夜中のメールをやめましょう」は”働き方改革”支援か。

こんにちは。

夜中のメールのプレッシャー

子供がまだ小さいころ、まだ「働き方改革」という言葉がクローズアップされない時代、こんなことを言われたことがありました。

「河野さんのメールは深夜早朝、休日が多くて気持ち悪い」

なるほど。。。

ポイントとしては僕が時間外に仕事のメールを発信することで、受け取る側にとっては、深夜早朝や休日に仕事を強いられるようでプレッシャーになる、もうちょっとまともな時間にメールをしてほしい、ということでしょう。

ちょっと反省しました。そんな時間働きたくないのは誰でも同じ。なんとか工夫しないとな。

とはいえ、メールを書き溜めておいて朝9時になったら発信する、というのも不自然だし、”定時内”に送ろう、と先送りしたら忘れそうだし…

結論は出ないまま、そして改善もしないまま今に至っています。

”働き方弱者”の論理…

そこで、ふと「なんで深夜早朝、休日に仕事のメールをしなければならないか」を考えてみました。

結論としては、そうせざるを得ないのです。。。

子育て世代にとっては、朝の7時から9時くらいまでと、夕方からよる10時前くらいまでが、いわゆる「戦争状態」で、一切仕事が手につきません。

朝の7時過ぎから、「起きろー!」「歯みがけー!」「着替えろー!」と叫び、学校に送り出したと思ってほっとしたら、食卓の上に連絡帳が残っているのを見つけてスーツに素足でサンダルを引っ掛けて走って追いかけたり。。。

夜は夜で、寝かしつけてもなかなか寝てくれず、添い寝をしてそのまま寝落ちしたり。。。

本来は朝8時から夕方6時まで、といったマトモな時間に働けばいいのですが、そうはいかないのが実態です。

結局仕事ができるのが、朝子供が起きる前か、夜寝た後になってしまうわけです。

平日に十分時間を当てられないため、週末も同じような時間になってしまうこともざらではありません。

となると、働き方改革を推し進めようとする前向きな気持ちから生まれた「深夜のメールはやめましょう」という意見は、実は、介護や育児などを抱える”働き方弱者”にとっては首を絞めることになりかねない”強者の論理”なのじゃないかな、と思ってしまったわけです。

この「深夜のメールをやめましょう」という呼びかけは、もともとは良心から出ている働きかけなので、こういう場で発信すればカドがたたずに気付いてもらえるんだろうな、という期待も込めて書いてみました。

とはいえ…

でも、さらにさらに、もっと引いて考えると、根本的には時間外に仕事をしなければならない状況があること自体を変えればいいのですよね。

そこを解決しようとしているのが「働き方改革」の本来目指す姿で、よく言われるように仕事を「効率化」することが必要なのです。

「効率化」については書き始めると終わりませんので、またの機会に譲ります。

みなさんはどう思いますか?

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逆境体験の意義って? 〜経験の「結晶化」とは〜

こんにちは。

スキーのベテランインストラクターの言葉

あるベテランのスキーインストラクターから、”教えやすい”クラスの特徴を聞きました。
その人は中学の修学旅行や研修旅行に来たツアー客を中心に教えることが多い人だったのですが、スキー初心者向けのスクールを長く担当されてた人です。
曰く、
①いわゆる受験を経た経験のある生徒
②スキー以外のスポーツを一定以上やったことのある生徒
が共通して教えやすい、ということでした。

①については、やはりインストラクターの話をよく聴く点と、それを素直にやってみる点だそうです。
②については、同じように言われたことはまず試してみる点は共通でした。加えて体幹がしっかりしていることが多く、競技上のポイントが何かを理解するのが早いということでした。
特に②の層については、多くの場合、スキー合宿が終わる頃にはスキーだけの経験者を超えるほどのレベルまで上達し、放っておいてもどんどん上手くなる、ということでした。

なるほどー。

仕事における過去の”経験”

でもこれって、仕事にも通じるものってないでしょうか。
もうすこし具体的に言うと、分野は違えど何かに一生懸命やって、ある程度極めたという経験がある人と、そうでない人の違いに似ているな、と。

一生懸命やってある程度極めた経験というのは、単なる経験年数の長さはもちろん、よく苦労話で言われる”単なる”辛い経験で得られた質を軽く凌駕するな、と思う瞬間って多いのです。

得てして、何かに秀でた人を見て「あの人は天才だから」とか「もともと高い能力があるから」と言って片付けてしまったりする人いますよね。ひどい時には「あの人にはでき ない人や弱い人の気持ちはわからない」といって逆に何か悪いことでもしているかのように扱ったりして何も学ぼうとしない姿勢の人すらいます。

これって、正しい姿勢ではないですよね。

なぜその人は、新しいチャレンジにも能力を発揮するのか、早い段階で追いつくのか。これを考えてみることが未来志向の姿勢だと思います。

なんででしょうね?

僕が考えるに、これは単に大変なことをやるとか厳しい環境に耐える、ということそのものには全く意味はなく、どんなことでも何かを極める過程で各種の課題を解決したり、人とのやりとりを学んだりという汎用性の高いテクニックを得る機会になると言うことでしょう。

そもそも何かを一生懸命やる、というのは目標をもって何かに取り組むという期間を経る経験を持つことそのものです。

これが、かつてリーダーシップ育成に「逆境経験」を求める企業があったり、体育会のリーダーや高業績者を優先的に新卒採用してきたことにつながっていたのではないかと思います。(表面だけの運用が多かったため逆効果の例も多発しましたが。)

実は、最近、もと軍隊経験者の外国人の同僚と接点をもつ機会が複数回あったのですが、やはり軍隊の経験はリーダーシップやチームワーク、敵へのアプローチなどの観点からビジネスに大いに役に立っているということを言っていました。それを感情論、根性論ではなく論理だって説明してくれました。

自分自身のキャリアをより目指すべき方向に向かわせるためには、今の仕事に真摯に取り組み、ほんの少しの経験であっても別の場面でも応用可能な”能力”へと”結晶化(Crystalize: 具体化)”するということの繰り返しがとても効果的であるという良い例だと感じました。

この”結晶化”のために必要なことは、同じ仕事をするにしてもすこしだけ視点をかえてやってみるだけでいいと思うのです。

過去の経験を”結晶化”させる

例えばこんなことってないでしょうか。
・日々の仕事を与えられるままに漫然とやっている
・誰か or 何かに対して不満をもったままやりつづけている
・仕事をこなすことのため、とか四半期のインセンティブのため、という近視眼になっている
・チームのなかで「いい人でありたい」とか「嫌われないこと」が優先順位の高い位置を占める
・自分にはXXがない、でもあの人は⚪︎⚪︎があるから自分には不利だ、などと考えている
などなど。

こいうのって、明らかに自分の経験という貴重な宝物を、作り出した途端にゴミ箱に捨てている典型です。
宝物は、せっかくだから結晶化して、再利用可能なかたちで持っておきましょう。

置いて置くスペースは自分の頭か心の中ですから容量制限はありません。

結晶化の作業ってそんなに難しいことではありません。

「あの時はうまくいった」「とかあの経験は大変だった」だけで終わらず、「なんでうまくいったんだろうか?」「次に活かすには、どのポイントが有効だろうか」とか「人に伝えるとしたら、どの部分が皆さんにとって意味があるだろうか」という視点で振り返ってみるだけでいいのです。

文字通り、そんなに難しいことでも、とんでもない努力や才能が必要なことでもありませんよね。

その割には重要なことだったりしますので、やらない手はないはずです。

皆さんはどう思いますか?

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一杯、人、酒を呑み、三杯、酒、人を呑む

こんにちは。

福澤諭吉著「学問のすゝめ」を読んでいたところ、

『一杯、人、酒を呑み、三杯、酒、人を呑む』

ということわざに遭遇しました。

一杯、人、酒を呑み、三杯、酒、人を呑む

酒に強い人には分からないかもしれませんが、僕のように強くないけど飲むことが好きなタイプにとっては、よーく分かる言葉です。

要するに一杯目は人が酒をコントロールしているけれども、誘惑に駆られて二杯、三杯と行くと逆に人が酒にコントロールされてしまうという意味です。

僕の家系は酒飲みが多く、心から酒を楽しむ人が周りに多かったのですが、残念ながらその才能は僕には遺伝しませんでした。

でも、お酒自体は好きなので、つい二杯、三杯といってしまいます。そうすると食べ過ぎてしまったり、翌日まで残っていたりして仕事のパフォーマンスに影響することがよくあります。

ですので、特に平日はその二日酔いを翌日まで引きずることは、プロとして失格だと思うので極力アルコールは自分がコントロールできる範囲に押さえるようにしています。

過ぎたるは及ばざるがごとしとも言います。少量であれば人間関係を円滑にしたり、ストレスを解消したり、食事をおいしく頂けるお酒ですが、物事には限度があり、身の程をわきまえていないと路頭に迷う、ということでしょう。

身の程を知り、コントロールする

社会人ともなれば自分の向き不向き、限度は理解しているはずです。にもかかわらず誘惑に勝てずについその限度を超えてしまうこと、よくあると思います。

何もお酒に限らず、消費とか夜更かしといったより身近なこともおなじことです。ついつい買い込みすぎてしまったり、娯楽を優先して寝不足のまま仕事に向かったり。

もちろん、お金を有り余るほど持っていたり、体質的に全く寝なくてもいい人であれば、問題ありません。

でもそうでない人は、よくよく自分の限度をわきまえて日々気をつけるようにするべきだと思います。

なんてことを自分への戒めも兼ね、考えた週末でした。

みなさんはどう思いますか?

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「IBMが在宅勤務を廃止」は誤報かも。

こんにちは。

ちょっと噂になった報道

先日、 北米のIBMにおいて、“在宅勤務”が禁止になり、現在在宅勤務を選んでいる従業員はオフィスに移るか、会社を去るか1ヶ月以内に選択せよ、という指示が飛んだというニュースが日本でも話題になりました。

www.theregister.co.ukこれについて、「会社を代表しない“個人”の立場」で「感想」を「メモ」したいと思います。

現在、日本で国を挙げて「働き方改革」に力を入れていて、その中でも在宅勤務の奨励はひとつのキーワードでもあるため、今回のこのタイミングでのIBMに関する報道は、それなりに議論になっていました。

大きくは

  1. ほらみろ、やっぱり在宅勤務は機能しない
  2. せっかく日本でも流れができたのに、IBMは何をしているのか
  3. いいんじゃないの、それぞれ選択があって(あんまり賛成しないけど)
  4. なんかの間違いじゃないか

といった論調だったのかな、と思います。

 実のところ…

普段、USのメンバーと働いたり、現地に派遣されている人たちと情報交換をしている者としての整理は次のようなものです。

まず、事実としては、このステートメントが、異業種から着任したばかりのCMOがMarketing部門だけに対して発信した内部ステートメントであることがひとつのポイントです。外部に向けた公式発表ではなく、また今のところIBMとしてはこの件についてコメントしていないようです。

次に、「ホームオフィス」の訳語は「在宅勤務」で正しいのですが、今日本で言われる「在宅勤務」とは意味が違っています。

日本では、

  • 早めに帰宅して介護や育児を行い、夜また自宅で仕事をするとか、
  • 子供が急病のときにも自宅で仕事をするとそれを出勤とみなす、とか、
  • 特に出社の必要がないときは自宅を含むどこで仕事をしてもよい、

というワークスタイルをさします。(個人的には、これはオフィス勤務の従業員にも当然のように与えられるべき権利だと思っています。)

一方USでの「在宅勤務」は、入社手続きのときくらいしかオフィスに出ず、一切出社を前提としていないものを指すことが多いのです。

ですから、山奥に別荘のような居を構えてしまい、時々オフィスから召集がかかると、飛行機代や出張手当、宿泊費などを会社に請求するというような事態が発生していたようです。

これに、メスを入れた、という見方を「僕は」しています。

以前も書いたように、

eitarokono.hatenablog.com単純に仕事の生産性だけをとってみれば肩を並べて隣同士にいるのと、離れたところで電話やメール、画面共有だけでつながっているのを比べると、(現在のテクノロジーでは)当然前者の方が効率がいいに決まっています。

しかし、ここでのポイントは、物理的に離れたところ(主に、自宅や病院、学校など)にいなければならない事情を抱えた人を惹きつけられる職場であるかどうか、ということなのです。

もう少し細かく言うと、顧客や株主、会社に対して価値をもたらす人材であるが、どうしても働く時間や場所に制限があるひとを仲間に加えられるかどうかという判断を迫っているわけです。

ということで。

 ですから、

上記の

「1.ほらみろ、やっぱり在宅勤務は機能しない」

というのは当たらないと思います。"機能しない”のではなく"機能させる”のが社会の義務。

また、

「2.せっかく日本でも流れができたのに、IBMは何をしているのか」

「3.いいんじゃないの、それぞれ選択があって(あんまり賛成しないけど)」については、情報の伝わり方が正しくなかった、ないしは前提の情報が共有されていなかったというところでしょうか。

 

で、僕からみて正しいな、という感想は「4. なんかの間違いじゃないか」というやつですね。

はい、「IBMが(日本でいう)在宅勤務を一切禁止した」というのは、あるいみ誤報です。

いわゆる日本でいう「在宅勤務型」のワークスタイルはこれからもIBMでは当たり前のように続けていきますし、日本においても導入する意義は大いにあるので、ご心配なく!

以上、「会社を代表しない“個人”の立場」での「感想」の「メモ」でした!

皆さんはどう思いますか?

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書き言葉にもリズムがある

こんにちは。

文章のリズム!?

最近、読者を意識した文章を書く機会が増えてきており、今まで以上に読みやすさ、受け入れやすさを意識する機会が増えています。

そんな中「文章のリズム」について考えることがあります。

これは編集者という文章校正のプロと仕事を共にした経験から備わった視点です。

編集者のみならず、コピーライターや、選挙参謀の人などにとっては当たり前のように日常の一部なのかもしれません。

でもそれまでの僕は、このような配慮は、広告宣伝とか選挙演説のような短時間に聴衆の心を掴み、購買行動や投票行動につなげる必要のある人たちのみに求められるものとばかり思っていました。

ひと昔前なら某総理大臣の名言、「改革無くして成長無し」とか「郵政民営化」と言ったものだし、最近では「Yes, We Can」「Make America great again 」などが典型ですね。

こう言ったものは、僕たちのようないわゆる通常のビジネスパーソンには特に求められるものではないと、思っていたわけです。

特別な人だけに求められるものではない

でも、あるとき編集者の方に「この表現、間違っていないけど、リズムが悪いです」という指摘を受けたことがありました。

その時の僕の第一の感想は、「声に出すわけではないのだからリズムは関係ないのではないか?」というものでした。

しかし、改めてリズムはを意識した時の表現と、そうでない時の文章とを比べてみると、「そうでない」文章は、例え黙読したとしても、なぜか「息切れ」するのです。もちろん脈が上がるとか息が荒くなるというブィジカルな現象は伴いませんが、なんとなく読みづらく、同時に頭にも入ってきにくいのです。

確かに自分が発信しているものも含め日頃交わしているメールのやり取りなどでも、正しいことを書いているのに、なぜか読むのがツライ文章に出会うことが多々あります。

この辺り、なんでなのかな、と疑問に思うのですが、明確な理由はよく知りません。 

今のところ、戯曲やお経などが長く伝えられているように、聞いて美しい言葉は書いても美しいのだろう、くらいに考えています。(どなたか説明できる方おられませんでしょうか?)

身近な文でもリズムを意識すべし

ここでのポイントは、文章を書くときには、どうしても忙しさにかまけて、思ったままを書いてしまうことが多いですが、読者の視点に立って、「リズム」に注目して文章を書いてみると、意外に読んでもらえて、考えが伝わり、思ったように人に動いてもらえたりするんではないだろうか、というところです。

史上最大級の低気圧到来で荒れた天候の西日本に出張し、新幹線に揺られながら、ふと車窓から見えた束の間の晴天にたなびく煙を目にしてこんなことを考えました。(←こういう表現が典型的な「息切れ」文です)

皆さんはどう思いますか?

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ブランドにあぐらをかいてはいけない。

こんにちは。

ブランドのおかげで仕事ができている

仕事をする中で、自分個人の実力値以上に会社のブランドによって助けられているな、と思うことは多くあります。

インターブランドの評価によると、IBMは相変わらずグローバルトップ10に入っています。そういう意味では日々助かっているな、と実感します。

一方で、気をつけなければならないな、と思うことも多くあります。

会社のブランドを一瞬自分の実力だと勘違いしてしまったり、気がつくと「IBMだからいちいち丁寧に自社の説明をしなくても許してくれるだろう」「IBMだから、ちゃんと毎月給料は払ってくれるだろう」と思っている自分がいたりすることです。

最近の仕事柄、スタートアップの企業の皆様との接点が多いのですが、その人たちは腕一本で勝負しています。常に新しいことを試し差別化をしようと努力しているのを感じます。そして日々成長しています。

たとえ伝統ブランドにいても、そういう気持ちを忘れてはならないと思うのです。

伝統ブランドと新興ブランドの違い

最近もよく似た感覚をもった出来事がありました。

実は娘が中学受験を経験したのですが、その過程で伝統的ブランドと新興ブランドで大きく二つに分かれるな、と思ったことが多々ありました。

学校公開、募集、合格発表などで痛感したのですが、やはり伝統的ブランドは学校公開では「来たければ、来れば?」というスタンスを感じますし、募集手続きも数日から一週間と、そこそこ長くかかります。合格発表も同じように受験後数日から一週間かかります。一方で新興ブランドは学校公開は明らかにマーケティングイベントとして力の入れようが違います。募集も入学試験の30分前まで受け付けていたり、発表も試験終了後2-3時間程度でオンラインで速報したりします。要はハングリー精神の観点でだいぶ異なるのです。

この活動をどう見るかは、いろいろな視点があるとは思います。やはり「本質的」な教育内容で判断すべき、とか、OBOGのネットワークは伝統校ならでは、という部分があるのはたしかです。

とはいえ、うかうかしていると伝統的ブランドといえども、長い間に大きな波に呑まれるのではないか思ったことが多々ありました。実際に募集人員の伸びとか、いわゆる合格偏差値といった数字面でも動きが出始めています。

更に言えば、若い純粋な感覚で判断するとその辺りの雰囲気を敏感に察知するようです。

志望校を決める際も、つい自分の時代の感覚で判断してしまい、○○(ブランド)がいい、とかXX以上じゃなきゃいけない、と価値観を押しつけがちですが、フラットに子供の視点で決めさせると、親の視点とは全く違う結論になりました。

結果的に子供の判断に任せたのですが、時代の変化を考えると、まあそれもアリかな、と思っています。

ビジネスでも同じことが起こっていないか

翻ってビジネスの世界に視点を移しても、同じことが言えるのではないでしょうか。

ブランドがあれば、仕事の中でも無理を通したり、ゲタを履いたりできます。人を集めるにもそれほど苦労はしません。でもそれにあぐらをかいて、イノベーションを怠ったりすると、気がつかない間に新興勢力に追い越されていたりするものです。

消費者や顧客の中で先進的な感覚を持っている人が判断すると、新興勢力の方が魅力的に見えてしまうことも多いはずです。

ブランドを維持し、その結果であるブランド価値を活用することは悪いこととは言いません。むしろ日々の活動の中でも中心にあるものであるとすら言えるかもしれません。

しかし、それにあぐらをかいてしまうことは実は自分のクビを締めている、そしてビジネス的寿命を縮めていることでもあるということを常に意識したいな、と娘の受験を通じて思った次第です。

皆さんはどう思われますか?

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働き方改革の数値目標を見て思う 〜「本質的議論」とかいうもの〜

こんにちは。

本質的でない「本質的な議論」

先日、働き方改革のながれで、残業上限月60時間という記事が日経新聞に載っていました。

こういう分かりやすい目標が設定されると、ありがちなこととして「何故60時間なのか」とか「数値目標ありきで本質的議論が足りない」という議論がおこることがあります。

(実際に今回起こったかどうかは確認できていませんが...)

実は僕自身がこの手のシンプルな目標とか、プロダクトアウト的なアプローチが好きなので、その立場から記事の見出しをみたときに「お、やるな」という思いとともに、先ほどの「そもそもさー」といった議論を想像してしまったわけです。

で、なんで僕がこの手のシンプルな目標とかターゲットありきのアプローチが好きなのかというと、簡単に言うと改革がちゃんと進むからです。

日本の組織の特徴として、ミドルからのアップ&ダウンという意思決定の方法があります。このアプローチをとると、何も決まりません。まったく前に進みません。

なぜかというと善意から出た「本質的な議論」というやつが始まるからです。

実際に経験したことですが、15分で決まることが、2年くらいかかったことがあります。これ、本当です。非常に優秀な人が真剣に議論を続けるわけです。で、タイムアップまで決まりません。

もちろん、なんでもかんでもこのミドルアップ&ダウンのアプローチが悪いとは言いません。うまく機能していた時期もあったのでしょう。ただ、僕は20年社会人をやっていますが、うまく行っていない例しか知りません。

要するに今の時代に合わない意思決定・改革実行方法なのでしょう。

XX電産とかYYクロとかZZZバンクとか、今うまく行っていそうな組織はトップダウンでクイックに意思決定・実践をすることで伸びている気がするのも無関係ではないでしょう。

今の日本の政府もかなりトップダウン的な様相を呈しているので、「本質的な議論」というエンドレス会議をする必要が無くなっているのかもしれません。

まずはやってみて、修正する

もちろん、蛮勇とか、「とりあえず」のドタ勘ではいけません。

とはいうものの、リスクをさけるために多くの人を巻き込んで「本質的な議論」という名の本質的でない作業を繰り返す愚はもう止めるべきです。

責任のある人が真剣に考えた仮説を、まずは検証してみる。違和感や見込み違いがあったら修正すればいいのです。

まずは動いてみること。そのアプローチをとれば、はやい段階で紆余曲折がはじまりつつも軌道修正されてゴールが見えてきます。「本質的な議論」アプローチの「議論の骨子」ができあがり、起案者の上司がそれに赤入れをしはじめたころには問題は解決しているでしょう。

みなさんはどう思いますか?

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